エッセイ:憧れても手に入らない無垢さ(榎本弟)
こんにちは。榎本弟です。今回は兄と話したことをぽつぽつと書こうと思います。
「冷笑系」という言葉は、自分にぐさっと刺さります。
生きていると無垢(に見える)人物に出会うことがあります。言い換えると、幸せに対する感度が高い人。どこかで疑うことを辞める人。
自分は頑張っている人を斜に構えて見てしまうという悪癖があり、ものごとをニュートラルに受け入れる人(つまり無垢な人)へのひそかな憧れを抱いています。
僕はどうでもいいような所で自分を大きく見せてしまいます。
例えばですが、「マックのナゲットのソースはどっちが好き?」と言う問いに、マスタードと答える時。もしくは、「餃子に何つける?」と聞かれて、酢胡椒と答える時。
「BBQのこってりとした化学的な味なんかにボカァ騙されやしないヨ」
「酸味と胡椒のアクセントが素材の味を引き立てるネ」
などと、僕はついカッコつけてしまいます。
典型的なのは文化的なものの話をするときですね。映画だったり、絵だったり、音楽だったり…
(こんなに露骨に攻撃的なことを書くことに不快感を感じられる方もいるかと思います、すみません…)
こういう心理的な働きをなんとか僕の言葉で説明しようというのが今回のテーマの一つなのですが、今回僕は「高次・もしくはまっとうな価値コードを身に着けている」と意識することによる「対象の世界の陳腐化」として纏めようと思います。
「くだらない」「ダサい」「そんなこともわからないの?」と物事を切って捨てることの快感は凄まじいです。そして、ここがポイントだと思うのですが、この「自分を高次に置いて他者を攻撃すること」は、とても簡単に行うことができます。物事の粗は探せば簡単に見つかるし、自分の背後に権威があるようにプロデュースすればいいのですから。
人間は全員違って当然なので、「ダサい」といった感情を持つのは当然です。この感情の働きを否定する気は毛頭なく、むしろ健全なことです。
しかし、僕は「ダサくなりたくない」から物事の「ダサいところ」を執拗に見つけ出し、分かったふりをしてものごとを陳腐化し、それらを避けて振舞おうとしてしまいます。
ここが、僕の問題とするところです。陳腐化のスパイラルは半永久的に下降していき、何をするにも物事の粗を探し、自分が土俵に乗るどこかの点を逸し続けるという事態に帰結します。
(デカルトの方法的懐疑って、こんな感じだったのでしょうか?疑い続けても、疑う能力が高ければ高いほど物事を陳腐化できるため、自分が安心して乗っかることのできる土俵は半永久的に見つかりません。)
また、単純に、他人の粗を探し続けるというマインドセットは、持っていて自分で気持ちのいいことではない、ということも大事です。
恐らく私のこうしたマインドセットは、中学の頃の経験によって形成されていると思います。何をしても取り敢えず人格が否定されるので、僕は自分のふるまいについてとても臆病な人間になりました。また、免罪符にはなりませんが、これによって他人の振る舞いもジャッジするようになりました。
基本的に、ここまでひねくれていない人は、どこか早い段階で疑いの連鎖への切断を行い、自分の価値観を表明するのだと思っています。あるいは、人によっては、疑いがそもそも始まらないという可能性もあります。
(バイアスがかかっている自覚が大いにあるので、もし異論がある方は是非コメントにしてお願いします)
先ほどの例をもう一回用いてみると
「BBQ味って、罪悪感あるけどおいしいよね」
「醤油にラー油をちょっと入れると、ピリッとして良いよね」
などの意見を、堂々と、正直に表明できる人に、僕は死ぬほど憧れています。(書けば書くほど屈折していることがわかってきますね笑)
ただ、酢胡椒がかっこいいっぽいことは、僕はもうわかっています。しかもそれと同時に、カッコつけをやめよう!という意識から「醤油とラー油が好き」って言いだすのも、なんか嘘っぽいなと思ってしまいます。
僕は、本当に、なんの衒いもなく、「餃子にはコレだな」というのをナチュラルに表明したいのです。ただ、疑い続けてきたマインドが僕にそれを許しません。これが「憧れても手に入らない無垢さ」という言葉で僕が言いたかったことです。
では、屈折した僕は、どうすればいいのか?
今、僕がこのノートを書いているのは、ひいては古着屋をみんなで開こうとしているのは、ポジティブな方向に向かうためです。自分をスティグマ化して、自己卑下を重ねることではありません。そこで、少しでも肯定的な方向に進めるように、もう少し考えてみようと思います。
(というか、こんな風に考えられる時点で、僕の屈折は大したことない可能性もあります)
ここまで書いてきた中で気づいたことは、僕は無垢に憧れるのと同時に、無知を恐れているということです。
ここでは、無知とは、自分の信条を相対化するだけの知識を持たないこと、またそれによって人を傷つけるリスクに気づけていないこと、と仮に定義します。
一般性がどこまであるのかは計りかねますが、自分自身の経験も相まって、僕は断罪されることへの過剰な恐怖に加えて、他人の意見を断罪することも決定的に恐れています。それ故、自分の臆病なあり方を嫌っていると同時に、疑い続けることを自分に求めているとも考えられます。
つまり、「断罪されることへの恐怖」→「安全圏確保のための他者の陳腐化」→「逆説的に他者を断罪している自分への嫌悪感」
もしくは、「断罪することへの恐怖」→「無知への嫌悪感」→(「無知の断罪」→「逆説的に他者を断罪している自分への嫌悪感」)or(「自己相対化」)
など、自己相対化のスパイラルやこれまでの一連の考察の根底には、「傷つけられたくない」「他者を傷つけたくない」「他者を傷つける自分が許せない」という気持ちがあるのかもしれません。
僕がすごく好きなRADWIMPSの「透明人間18号」は、アイデンティティに悩む人に寄り添う曲だと思います。以下引用ですが、本当に凄い歌詞です。
歌詞をフルに理解している訳ではない上に、野田洋次郎さんのことが大好きなので、自分の考察を書くことに怖さもあるのですが、少し書いてみます。
一定の正しさに身を埋めることには、潔さがいります。
「正義の反対は違う正義」なんて言葉がありますが、正義は相対化しようと思えばどこまでも相対化することができます。自己への疑念を切断し、美しいと思う色を選ぶことはとても勇気がいることです。
しかも、自分の身の回りの人は、それを堂々とやっているように感じられます。それぞれが信じる色に染まり、自分の正義を貫いている一方、灰色の「僕」は色を持つことを諦めきれない上に、色を選ぶこともできない。もしくは元から色が与えられていないような気さえする。
そんな中で、無垢な「君」は、灰色の自分のことを美しいと言ってくれます。おそらく、優しさを持っているが故に優柔不断になってしまう「僕」のことを、神様のような優しさで見つけてくれているのでしょう。
自分のことをグレーだと思っている人たちは、もしかしたら真剣に自分の人生を考えているが故に、こうした悩みに陥っているのかもしれません。
人間には、どの色にも触れられる可能性があります。また、どの色が嫌いかは関わってみないことにはわかりません。自分を開いて、諦め悪く自分のことを広げてみるということを、最後に抱負として述べようと思います。
ノートを見て、ちょっとでも気になった方は、是非multitudeのInstagramをフォローしてみてください!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?