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人生の岐路ー北京にて自分の未熟さを痛感した話

記憶のゴミ箱みたいな話です。

書き殴っているのをお許しください。

修士課程2年生の時に北京で開かれたアジア結晶学会に参加したときの話。当時は他大学に博士課程進学の話も進んでいた。その学会には研究室からは教授と私、二人での参加だった。ポスターセッションでの参加だった。

学会の開催日のぎりぎりまでポスターをつくることが出来なかったので、教授とメールを何往復ものやりとりしていた。教授は出張先から直接北京へと向かう予定だった。

もちろん、会場となるホテルへ宿泊の予約をするのが当然だし、教授となるべく一緒に行動をするのが普通と言うものだろう。

その当時から私は狂っていた、会場から離れた場所のホテルにわざわざ予約をした。当然、教授とも行動は別々になる。

理由は「一人旅行も良いものだよ。」という助教の話を信じたからだ。

結果は惨憺たるものだった。

異国の地のホテルの一室で一人で怖くて怯えていた。

学会会場には2日顔を出した。きちんと(怪しい英語で)外人さん相手に自分のポスターの説明もした。盛況とはいかなかったが、興味を持ってくれた方もいた。

後で聞いた話だと、私のポスターは、入賞したらしいが、授賞式に私はいなかったので知らない。

始めのうちは教授についていっていたのだが、途中で、「この人にほんとについていって大丈夫だろうか?」という疑問が湧いた。

そして、気付いたら北京の夜の街に飛び出していた。

なんとなくの感覚で歩いてホテルにたどり着けるわけもなく、数時間歩いた後、タクシーを拾ってホテルの地図があるカードを指差して、持ってきた中国のガイド本に書いてあるとおりに中国語で「ここに連れてってくれ」というようなことを言った。

まぁ、無事にホテルに着くのだが、それから、家族から電話が掛かってくるとか教授から電話が掛かってくるとかあった。みんなに心配をかけた。

実は6日間の滞在になっていた。私は旅行会社に電話して「帰らしてくれ」と頼んだが、日程を変更できない契約だったらしく、断られた。

私はホテルで引きこもった。とても、探索をできる心持ちではなかった。そんな勇気もなかった。

お腹は減っても食べ物を食べることさえできなかった。言葉が喋れないことでこんなに生活が出来ないなんて思っていなかった。

しかし、無情にもホテルには清掃の時間がある。その時には清掃員に「部屋を出ていってくれ」と頼まれ、仕方無しに北京の街を探索した。

天安門広場まで歩いて帰ったのを覚えている。すごい人波だった。直線で行って帰ってくるだけだったので道に迷わなかった。

途中、店によったが、日本と違う。商品に値札が付いていない。レジもない。客の中国人が「この商品はこの値段でいいんだよな?」的なことを定員に聞いて定員が応答しているのを横目に見ながら、私は店を後にした。

日本でコミュニケーションを取らないでサービスを受け取る方法に慣れ親しみ過ぎていたんだと気づいた。コミュニケーションを取らないとサービスを受け取れないのが私のカルチャーショックだった。

電子ケトルで水を沸かして飲む。この方法で飢えに耐えていた。

結局、最終日に空港でファストフードを食べたのだが、今までなんで出来なかったのか分からないぐらいあっさりと食事にありつけた。

この一連の出来事で私は自分の人間としての未熟さが苦になった。

人間として暮らしていく能力が著しく欠落していると感じた。

結局、この後、進学から就職へと人生の舵を切るのだが、その選択が良かったか悪かったかは今なお分からない。後悔するときもある。

良い悪いは分からないが、色んな経験を経て今の私が形成されている。

北京での短くも惨めな経験は、私の歴史に刻まれている。

海外旅行はもうこりごりです。行くなら団体のツアーで何も考えなくていいのがいいです。まぁ、病気でその体力も無いので、海外への最初で最後の一人旅はある意味良い経験だったのかもしれませんね。

最後まで読んでいただいてありがとうございます。

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