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詩を書く理由と云い訳

詩を書いて人前に晒すことは恥ずかしい。
ポエムポエムなどと揶揄され
陰キャと侮蔑を受ける。
詩を書いたとしても自分のもとに
置いておくべきなのかもしれない。
雨ニモマケズは宮沢賢治の
メモ書きでしか、なかったそうだ。
それでも、人に読んでもらう詩を
書こうとする時
美しく、賢く、さらにいえば、
自我を消し、知的さ、言葉の遊戯へと
もたれかかりながら、
人にみせることの出来る詩句として
誰かに喜ばれ楽しいツールとなって
恥ずかしいことだったのを忘れてしまう。

自分のためだけに詩が書きたいとなる時、
云い訳はいらない。
けれども理由を、誰にも云えない理由を
知ることになる。
一昨日、私はその理由を知った。
言語化することの出来ない理由を知った。
「流れ星」の第一稿は惨たらく、
自分でもう一度読むこともできなかった。
最初の一行以外をすべて詩句へと置き換えた。
きっとこれが技巧なのかと、
やっと実感した。
なぜ、第一稿をすべて書き換えたのか。
人に読んで欲しいと思ったから。
人に読んで欲しいと願いながら、
詩へと書き換えた。
これを云い訳というのかもしれないし、
技巧というのかもしれない。
詩を書く云い訳は技巧というのだと私は思う。
もっと大事なことは
誰にもわかってたまるかという
詩を書く理由があるかないか。

「流れ星」を書き終えたら、
もうこれでお終いでいいとおもった。
ただ、もう一遍ぐらい、書ければいいかなと、
詩人でいたいなとも、そんなふうに思う。
文学極道へ投稿するための理由で
詩を書くことはもうやらないけれども、
書いた詩は投稿したい。
なぜならば技巧の教えを乞いたいから。
詩を書く云い訳は
いざという時の為の
食糧保管庫のように
たくさん蓄えておきたいから。

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