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稀にあること

結局のところ私には文才もなにもなかったのだと今さら気がついた、今更かよ、な話だけれども、4年前にネット詩投稿を始めた理由が小説を上手く書きたいなだったわけで、その結果を総括しなきゃっと、思いたったわけです。ちなみに、いま、「総括」と打ちながら「とうかつ」と読んでいた。この、漢字が読めないの件について話そうか。漢字が読めないは単に読書不足。文才もなかったし、私は読書家でもなかったのね、といことにも今更ながらに気がついた。いやいや、少なくとも、勤めている会社のなかでは読書家と呼ばれ、飲み会なんかの席で、もう1人の読書家と呼ばれる女性社員と小説やら文芸やらについて熱く語り合ったりして、紛れもなく私は読書家なのだ。ところが、世の中は広かった。ネット詩で知り合いになった連中のその読書家の度合い、桁違いだったね。(あ、でも小難しい本やらはわたしだってだいたい読破してますよ)
職場で漢字が読めない三浦さんなんて言われたことないよ。いやいや、うちの社長より漢字知ってるよ...言い訳を続けよう。つまり私はおおよそ30代後半からはまったく本を読んでいないしペンを握って漢字を書く習慣もなくした。大概の読み方は忘れてしまったのだよ。忘れてしまってもね、困らないの。教養ないみうらでいいの。もはやね、私は人生とやらの頂き前20歩ぐらいにいるわけだから。
そんなこんなのなか、最初にウッてなってしまった出来事は、ビーレビ発起人に加わった直後に書かせられた「声明文」。なんやかんやであれから約4年が経過してる。「100万ドルの詩が読みたい」というタイトルで発表された伝説記事(笑)を誰も覚えていないだろう。(三浦のアーカイブ化意識の無さから初期に各発起人から発表されていた数々の名文はこの世から失われている...)
この記事、私が人前に晒した初めての文。ちなみに「声明文」は音声メディアオンリーでもよかった。他の発起人らは音声録音を選ばれてた。それなのにみうらは文を選んだの。そう、私の最大の武器、それは保身無き身投げ。「100万ドルの詩が読みたい」はなかなか評判が良かった。普段褒めない他の発起人が「みうらの記事が一番詩文らしい」とおっしゃっていた。書いた私自身も内容をあんまし覚えていないのだけれど、たしか「詩作品への評価の場に経済的観点を持ち込んだほうがいい」という論点だった。良いとか悪いとか言葉でいうのは簡単だ、じゃあその詩作品を幾らだったら買うの?一万円で買う?それとも10円?そんなふうに作品評を金に換算したほうがシンプルだし、みんながスッキリするよね、的なこと。そうなんだよね、私は文才は無いのだけれど、ハッとする切り口だけはあるんだよね。同じくらい「くたばれビーレビュー」もなかなか評判が良いのですよ。みなさん異口同音にハッとされるの。
この総括記事、なぜ書こうという気になったかというと、とある人から、noteに上げた記事を読んで美しいって感想をもらったからなんです。じつはほかにもあって詩人田中修子氏の詩集本へ書いた批評もとてもとても評判よかった。あー、でも言っておきますとね、読んで良かったって感想くれる方々のなかに詩の有名人はいなかったかな(すみません、失礼な)上げるとすれば詩人石村利勝氏が褒めてくれた著名人の一人なのかもしれない。まあ、自分の文への評なんてどうでもいいっちゃどうでもいいの。ただね、ただ復讐してやりたいことがある。ここから本題です。

ある人気ある若い詩人(いやそんな若くないかな)が「三浦、あいつは詩が下手くそ(笑)」と語っていらっしゃる場に出くわしてしまったことがある。また、現代詩人会の中心にいらっしゃる方が「三浦さん、あなたもっと教養や知識を身につけて発言されたがいいですよ、ははは」って言われたこともあった。字面通りっちゃその通りだし、どちらかというとこういう風に言われることが大好きだったりする。でもね、直観的にこいつらを絶対に許しちゃダメだってずっと思っていて、絶対に許さない。こういうやつらを許すと私がダメになるし、なんだかこいつらみたいな輩がこの国をダメにしてんじゃなかろうかっていう社会正義にまで怨みを昇華しているよ。こいつらが羨む賞とやらを絶対に取ってこいつらを嫌な気持ちにして罰を与えてやりたい。ってこの本題、人気取りに走ってる輩は気をつけたほうがいいよっていうメタファー入ってるからね。
まあ、でもさ、極稀にでも、褒めてもらえる文を書けたら、嬉しいや。

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