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殺人鬼イエスと姦淫の女

 わたくし武庫川さん、神が存在するかどうかには、ビシバシ興味があったので旧約聖書のリサーチはいろいろしていたのですが、新約についてはざっくりと「人間イエスの生きざま」あたりをなぞっていただけなので、知らないことがたくさんありました。


「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」

という羽川翼ちゃんのセリフでも引用しておきましょうね。羽川翼ちゃんは、西尾維新の「物語」シリーズに登場するおっぱいの大きな女の子です。


 というわけで、武庫川さん、エホバの証人が使う、灰色の新世界訳聖書のうちヨハネ8:1−11が、ななななんと!「カット」されていることを昨日知り、驚愕いたしました!

 この部分、どういう箇所かと言うと、みなさんもよくご存知の

「姦淫の罪で捕まった女が、イエスのもとに連れてこられて、律法では石打の刑に処すことになっているが、さあ、どうする?」

という場面です。イエスは

「あなたがたの中で、罪がないものから石を投げなさい」

と答え、一人去り、二人去りして誰もその場にはいなくなった、という名シーンですね。

 私は、個人的には、この話が「キリスト教」の精神を示す根幹中の根幹、象徴的な話だと思っているので、「そこをカットするとは何事だ!」と驚いてしまいました。

 さて、エホバの証人がどう思ったかはいざ知らず、聖書学的には、この箇所は「後世の加筆の可能性が高い」ということで、要注意箇所となっているようです。

 そのため、シン・新世界訳では、カットしたのではないか?とも言われています。

 この箇所の詳細について知りたい人は、

が参考になります。


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 姦淫の女の箇所について「後世の加筆が疑われるから除外する」と聞くと、「なるほど、そこはイエスの時代のリアルな話じゃないから、ダメなのね」と普通は思います。

 ところがもっと面白いことに実は「ヨハネによる福音書」そのものが、どうもその執筆出自が怪しいとされています。
 マタイ・マルコ・ルカの3つの福音書より、もともと書かれた時代が遅く、なおかつ「ヨハネ?」とされる謎の人物の思想がバリバリ注入されているので、イエスの神格化に力点が置かれているのだとか。

 同時代のイエスの言動を伝えるものとしては、矛盾も多く、「イエスを信じなければ救われない」という偏った制限的な思想が強いとのこと。

 ぶっちゃけ「生きてたときの、イエスを知らない二次創作」とまで言われているので、まあひどい扱いです(笑) 薄い本じゃないんだから。

そうした中での「姦淫の女」の扱い。さてどうしたものか、というところですが、興味深いのは、

「実はこの箇所、ルカによる福音書にくっついていたのでは?」

という説もあるようで。どうしてもこのエピソードを挿れたいマニアがいたようです。

 


 いずれにしても、キリスト教がいかにもキリスト教らしいことを象徴するのがこの箇所だと思います。

 たとえばイエスが奇跡をおこしたからすごい!のであればサイババみたいなもんです。手品師でもOK。

 あるいは、愛を説くことなら、安保闘争時代のサヨクでもやってます。ラブ&ピース!

 そうした「すごい人」「すごいやつ」認定されるエピソードがあまたある中で、「律法によらず、なおかつ、罪深き女でも許される」という内容が、まさに、キリスト教精神の根幹なのではないか?ということですね。

 「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

と説いた浄土真宗の「悪人正機」説とタメを張れるくらい、思想的にすばらしいのが、まさにこの箇所だったわけです。

 悪人こそ救われる。姦淫の女こそ救われる。

この感覚があったからこそ、キリスト教は救済宗教たりえるわけで、

「売春女はアウト!」

としてしまえば、キリスト教精神への魅力は、ほぼ失われてしまうことでしょう。

 「善行を行い続けることができる者しか、天国の道は開かれない」というそこしか残らないのであれば、弱者救済の宗教としては、もはや成立しえないからです。

■ 俺を信じたら救ってやる
■ 善行を行ったら救ってやる

だけでしたら、そこらへんのカルト宗教でもやってます。べつにキリスト教を信じる必要はありません。お布施でもツボでも買って、新聞でも配ればいいわけです。

 しかし、「ダメ人間でも、そのままでいいんだよ」と言ってくれる宗教は浄土真宗とキリスト教だけなのです。そこが究極の救済なのだと思います。


 なので、武庫川さん個人的には「イエスの物語はそもそも、ぜんぶ創作・脚色なのだから、別にいいんだけれど、せめてそこの部分は残しておこうぜ」みたいな気持ちがあるわけです。


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 さて、創作されたイエス物語といえば、「殺人鬼イエス」の話も紹介しておきましょう。これもあまり知られていないエピソードで、ヨハネによる福音書とおなじく「後世の加筆」が疑われています。

 「トマスによるイエスの幼児物語について」


 トマスによる福音書、は外典として有名ですが、そのトマス系の「イエスの幼児物語」と呼ばれるエピソード群です。

■ 少年イエスが水を穴にためて遊んでいたら、別の少年がその水を流してしまった。ぶち切れたイエスはその少年をカリカリに干からびさせた。

■ 少年イエスに、走ってきたこどもの肩がぶつかった。怒ったイエスはその子を呪い殺した。

■ その子の両親が怒ってやってきたら、両親もついでに盲目にしてやった。

■ お父さんのヨセフが、イエスをしかって耳をひっぱったら、「おまえは俺をだれやとおもとんねん(意訳)」と威嚇した。


 とまあ、えげつない話のオンパレードなんですが、こうした話が作られるにも当然意味があります。これは何を言いたいかというと、

「イエスは生まれながらにすごい、つおい、超能力がある」

ということをバリバリ伝えたいんですね。

 なので、心優しき少年イエスが、だんだんとハートフルな青年になっていったのではなく、

「最初からフルパワーですげえやつ」

というスタンスで書かれているわけです。古代イスラエル人からすれば、

「そっちのほうがすごい、頼れる、だってつおいんだもん!」

という感覚なのでしょう。

 このあたりはエホバが「逆らう者は、全員焼き尽くすぜ!」みたいなノリなのと繋がってきます。


恐るべき幼時のイエス       宮本神酒男

には、さらに興味深いことが書かれていました。

”同書は「幼時福音書(英訳では物語ではなく、福音書)のなかでももっとも早いもので、150年頃に書かれているが、最初の数世紀、相当の人気があった」(ウィリス・バーンストーン)という。”


 こうしたヤバいイエスの話は「初期」に近く、そして「ウケた」のだそうです。

 なるほど、旧約聖書の世界観では「恐ろしくつおい神」のほうが頼られたわけですから、イエスの時代に近いほど、その感覚が残っているわけですね。

「愛のある神やイエス」

というイメージのほうが、逆に後世に集約されていった後付けのイメージなのかもしれません。

 とすれば、「姦淫の女」のエピソードこそ、後付で「遅い」ということと逆に、矛盾しないことになります。


 もしかしたら当時のイエス、リアルタイムのイエスは、「キレッキレのブチギレ野郎」だった可能性があるのです。

 そして、神殿に乗り込んで蹴散らしたりしてますから、あながち間違いではないかも・・・

 父エホバに似て、激情型だったなんて・・・。

 おもしろいと思いませんか?


※「幼時物語」の成立年代は2世紀ごろ
 「マタイ・マルコ・ルカによる福音書」の成立年代は1世紀〜2世紀ごろ
 「ヨハネによる福音書」の成立年代は2世紀ごろ
 「姦淫の女」の加筆は2世紀後半〜3世紀ごろが疑われている。


(おしまい)



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