カルトや悪影響宗教は「社会的ゾンビ」である。
映画の世界ではもう50年以上の歴史を持つ「ゾンビ」だが、つい近年も「カメラを止めるな!」という映画が大ヒットして、久々にゾンビ界隈が盛り上がった記憶が新しい。
ゾンビとは、何らかの理由で死んだ人間が生き返って、かつ、そのゾンビに噛まれたりすると、ふつうの人もゾンビになってしまう、という恐ろしい存在である。
もともとはアフリカのブードゥー教由来のもので、呪術師が墓から死体を掘り起こして、謎のゾンビパウダーをふりかけると動き出し、使用人や奴隷として永久に働かせることができるというものである。
ゾンビパウダーの正体は、フグ毒のテトロドトキシンで、ちょうどうまい具合に調合すると仮死状態から復活するときに脳にダメージを受けて、自発意思がない人間を作り出せるのだ、という説もある。
なるほど真偽はともかく、こうして奴隷状態にした人間を使役するという発想は、なかなか面白い。・・・いや失言、面白くはない。
それが映画の世界に入ってくると、これまた有名なロメロ監督の「リビングデッド」シリーズになる。うまいことを言うもので、
「生きているのに死んでいる」
というのがゾンビなのだ。
ロメロ監督によって「噛まれた相手もゾンビになる」という属性が付与され、(実は吸血鬼要素が加わった)わたしたちが想像する「ゾンビ」のキャラが完成した。
さて、いよいよ本題に入ってゆこう。
カルト宗教やら、悪影響を与える宗教・マルチなどの問題が議論されるようになって久しいが、それらの根本的な問題点は、
「洗脳によって、自分の意思、主体性を失ってしまうこと」
にあるだろう。これは一種の
「自己放棄」
であり、宗教行為や教義に自分自身を文字通り「献身」してしまうことで、自らの主権性を手放してしまうことを意味する。
肉体としての自己の放棄は死を意味するし、実際に宗教行為として「即身成仏」という手法をとって自死した僧侶もいるくらいだ。
しかし、肉体はそのままで、その精神において自己を放棄するということは、いわば「精神の死」であり、「社会存在としての死」を意味するだろう。
日本でも古来から「出家」するということは、俗世からは死ぬことを意味し、だから僧名や戒名によって、別の人格を得ることになったわけである。
宗教に落ちる、ということは、自己の死であり、社会的な死である。
しかし、そのまま隠遁生活に入って、二度と下界と関わらないなんてことは、生きている以上ありえない。とくに現代においてはよけいにそうであり、
「社会的に死んでいるのに、一般の人々に関わってくる」
ということが起きる。
そして、人々にまるで噛みつくように布教したり、入信させたりして仲間を増やそうとするのである。
うーん、まるで「ゾンビ」だ。
その宗教が「良きもの」なのか、「悪きもの」なのかを正確に判断するのはとても難しいので、ここでは
「カルトや悪影響のある宗教」
についてのみ語ることにするが、その信者は
「社会的ゾンビ」(そーしゃる・りびんぐ・でっど)
と呼んでもいいだろう。
ゾンビ映画の真骨頂は、愛したあの人が、ゾンビに噛まれてゾンビになってしまった時である。
親や仲間、兄弟、恋人、夫や妻が、ゾンビになってしまうのだ。
さあ、どうする。どうなる?
愛情と恐れと、自分もゾンビにされてしまうけれど彼や彼女を愛していた、という葛藤こそが、ゾンビ映画の核心である。
今、宗教やマルチに愛する人を搦め捕られてしまった人にとっては、まさに
「リアルゾンビ映画の世界」
の主人公なのである。そりゃあ、とてつもない心労だと思う。
”愛する人でも、ゾンビとなった以上、彼や彼女を倒すのか”
”あるいはゾンビのいないクリーンな地へ逃げて逃げて逃げるのか”
”ゾンビと戦う仲間を見つけて、頑張るのか”
いろんな生き方があるし、そしてたぶん正解はない。
だが、この世界には、たぶん恐ろしいくらい多くの
「ソーシャルリビングデッド=社会的ゾンビ」
がうごめいている。
あなたの隣にもゾンビがいるかもしれない。
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