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「脱宗教」の教科書8 〜あなたの物語を書いてゆく方法〜


 さて、前回までのお話で「あなたや僕たち私たちが、なぜ今ここにいるのか」について、そして「あなたや僕たち私たちに至るまでのざっくりとした歴史」について大きな枠組みで理解できたと思います。

 その大きな流れが、特に「新宗教」が説明している世界の成りたちと、まったく乖離していて、全然無関係で、なおかつどちらかというと「あなたや私の歴史」のほうが、リアルであり、そちらが「正しい流れ」であることまでは、なんとなく受け止められるようになったことでしょう。

 けれど、そうなると話がすこし変わってきます。

「僕たち私たちは、ヤハウェでなく、アマテラスを拝むほうがいいのか?」

「イエス・キリストを尊敬するよりも、やはり藤原鎌足のほうを見習ったほうがいいのか?」

「いや〜僕って武田信玄の子孫だからさ」

という、新たな視点がつぎつぎ登場して、混乱してしまうかもしれません。


 そのあたりを今日は整理しておきましょう。

 この連載の第三回くらいから、宗教も文化も、世界もほぼ『空想』の産物であると言ってきました。人は空想を重ねながら、「それでもその社会のほうが良いだろう」と思えそうなものをチョイスしてここまで文化文明を発展させてきたわけです。

 だから「ヤハウェ」という神がいるという空想をしたユダヤ人がいてもいいのです。あるいは「イエス・キリストが救世主だ」と空想した人たちがいたり、古代ローマ帝国でそれを採用した王がいてもOKなのです。

 「アマテラス」という神がいて岩戸に隠れたから日蝕が起きたんだよね、と空想した日本人がいても大丈夫です。

 エッチでおんなたらしの「ゼウス」がいてもOKです。

 そうそう、「ブラフマン」という神もインドにいましたね。


 ここで大事なのは「どれかが正解」なのではなく、「全部空想」なのだから、その中で

『自分はどの物語をチョイスし、どの物語を生きてゆくのが幸せか』

ということなのです。

 だから、「それでも自分は天地創造主の物語を生きてゆきたい」という結論になってもOKですし、「やっぱりブッダをお手本にしたい」という物語を生きても大丈夫です。

 これは、自分が自分の生きるストーリーをチョイスする、というだけのことなんですね。実は。

 けれど、それらの物語をチョイスするときには

◆ 何も知らないままで

◆ 誰かに言われただけで

◆ 自分に関わる物語に気づかないままで

◆ 騙されたかのように他人の物語を生きる


ことだけは避けてほしいと思っています。

 私は「あなたやあなたの一族が有している物語を知っているし、それを伝えることができる」のでよけいにそう思うのです。

「あなたには、あなただけの物語が本当はあるんだよ!それでも他人の物語を生きるの?」

と感じるのです。

 そして、それらはもともと全部「空想」で「物語」なのだから

「あなたはいつでも、あなたが生きやすい物語に書き換えることができるんだよ?次のページはどんなふうにでも書き換えられるよ!」

ということも伝えたいのです。


 私の個人的なお話をすれば、うちの先祖は藤原鎌足です。もしかすると平安時代の藤原道長の子孫かもしれません。
 鎌倉時代に、源頼朝の御家人として九州に移動します。
 うちの先祖は攻めてきたモンゴル軍と戦いました。現地総大将の一族です。
 でも、下克上で、どんどん部下に追いやられるようになります。九州の中心だった太宰府からどんどん南へ追い出されてゆきます。
 そして戦国時代!うちの先祖はずっと佐賀の龍造寺氏の家臣として転戦していました。
 最終的には現在の福岡県のとある村を領地としてとどまります。

 そこにうちのおじいちゃんの家がある、という流れです。

 もう、奈良時代から私までの物語がちゃんと繋がっているわけです。

 でも、前回に出てきたように、うちのおとんは末っ子だったので、その村にはいられませんでした。だからいろいろあって、関西へ出てきます。

 関西人だったおかんと出会ってしまったことで、さらに関西に根付かざるを得なくなってしまいます。

 なので私は関西人として生まれたわけです。

 自分がどうしてここに生まれて、どうして存在しているのか、まったく悩むことはありません。それは全部明白だからです。


 さあ!そして、ここから私の物語はどうなるの?ってことですね。

 もう本来の領地には戻れません。そこには”いとこ”が住んでいて、本家を継いでいます。いとこにはいとこの「本家を継いだ者」としての物語が待っています。(お墓の継承とか)

 外に追い出された者には、追い出された生き方しかチョイスできませんが、それを言えば藤原氏時代には「奈良と京都」にいて、御家人時代には「鎌倉か関東」にいて、そこから九州へ移動したわけです。九州の内部でも追い出されまくりです。

 でも、みんなそれでも頑張って生き抜いてきました。時には戦い、時には敗走し、時には災害などをくぐりぬけて。


 ここで、おかんの話をしましょう。おかんの父親の家は、関西の片田舎にあります。その家は、天皇家から「栗を入れる器を竹で作る仕事」を認められたらしく、その竹林の権利を朝廷から認可された文書を持っている家柄だそうです。(でもおかんの父親は、不倫でできた子とされて、家を追い出されました)

 おかんの母親の家系は、室町幕府の重鎮である赤松氏の子孫です。赤松の分家はめちゃくちゃたくさんあるのですが、関西のいち地方にちっちゃな領地を持っていて、その土地に根づいていた武将がおかんの先祖だそうです。墓地にでっかい武将の名前の入ったお墓があります。


 私はいま、おかんの先祖が持っていた領地の近くに住んでいます。ざっくりいえばおかん側の氏族の領地に、その近くで子孫として広がっている感じですね。私が関西人なのは、ある意味では「赤松氏の子孫だから」ということなんです。

 私の場合は苗字は父親のものを引き継いでいますが、実際には母親の先祖の領地を受け継ぐように生きています。こうした生き方を「地縁」や「血縁」と言います。

 どちらの苗字を受け継ぐか、というだけでなく、父や母の地縁・血縁を受け継ぎながら、多くの人は生きています。実際に歴史上の武将を調べていると、家柄は父方だけれども母方の苗字を名乗る武将はたくさんいます。それぞれのおうちで事情があったのでしょうね。

 そうして、わたしは父方の物語と母方の物語を受け継ぎながら、いま関西のいち地方に実際に住んでいるわけです。なんのために?

 二人の物語、あるいはそこから先の多くの人たちの物語を心に思いながら、次の世代を育ててゆくためです。おとんとおかんは離婚しましたが、それでも私は二人の物語を受け継いでいるのです。


 全然話は飛ぶようですが、実は欧米の人たちが信じているキリスト教の聖書も、実は最初から最後まで「家系と先祖」の話、「地縁と血縁」の話しかしていないのはご存知でしょうか?

 キリスト教系の信仰を持っている人は、聖書を読んでいて、お気づきのことがたくさんあるでしょう。

 それは「アダムとエバの子孫」の話からはじまって「アブラハムの家系」が特別だったり、「ダビデ」の家系が重要だったり、「イエスキリストがその家系とちゃんとつながっている、という家系図が載っていたり」する点です。

 聖書が主張しているのは、ずっと先祖と家系の話です。アブラハムの子孫だから、ヘブライ人は中東の地にいていいんだよ!と言っているし、ダビデの子孫だから「イエスは救世主(王)」になれるんだよ!と言っているのです。キリスト教で「神の王国」なんて言い方をするのは、ダビデの子孫が王になるからですね。

 それ以外にも要所要所でいくらでも家系の話が書かれています。それは結局、いまのイスラエルという土地を領有する権利は「神から与えられた地なのだ」という物語を証拠にしているからなのです。

 ”土地と先祖の話”が、実はこの世界じゅうのどこであっても、「歴史のすべて」なのです。

 それぞれの物語の中でしっかり生きてゆくことが、その地に生きるものたちの務めなのかもしれませんね。


(つづく)

 




 




 

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