<2>自由主義とリベラルを超えて 〜これから起きる世界の潮流〜
前回の記事
では、「タリバン」や「中国」と言ったわかりやすい例を参考にしながら
◆ 自由主義とリベラルの限界
について考察しました。
今回のお話はその続きでもあり、また「それを踏まえてこれから僕たち私たちはどのように生きてゆけばいいのか」という未来に向けての内容に移ってゆきます。
前回の話のポイントは「自由や人権というのは紳士協定であり、限界がある」ということでした。だから「自由と権利を標榜する」ということは、それをしない立場と比較して
不利
になることも指摘した次第です。(だって人権を尊重しない側は、人権を叫ぶ側を即座に撃つから)
もちろん、人類がどんどん文化的や政治的に進歩すると「お互いの利権をある程度尊重しあおう(限界はあるけれど)」というところに到達する、ということもお話しました。だから「自由とリベラル」は完全に間違いというわけではないのだけれど、その段階に到達していない国や人たちが山ほどいる、ということが問題なわけです。
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しかし、先進国ではすでに「自由とリベラル、権利と平等」の良さを味わっていますから、いくらそうではない勢力(たとえばタリバンや中国)が台頭してきたからと言って、「自由とリベラル」を捨てるということはありません。
そこで、これから起きるのは、世界の潮流が
「俺は好きなようにする。君も好きなようにすればいい」
という方向へ進む、ということだと知っておいて損はないと思います。
自由と多様性を尊重するというリベラルの考え方をつきつめると、「イスラム教」であれ、別の宗教であれ、それなりにそれぞれの考え方を認めざるを得ません。
しかし、実際には多様な宗教や多様な文化はトゲトゲのこすれ合いや、軋轢を生じさせるので、これまでは「自由」の名のもとに先進国がそうではない国をコントロールしようとするしくみが続いていました。
ところが、これからはそれがうまくいかなくなり、「じゃあ、好きにすればいい、勝手にしてくれ」ということが起きはじめます。
少なくとも「武力を持って制圧する」というやり方は使えなくなってゆく、ことは今回のアフガニスタンの事例で明らかになっていったのではないでしょうか?
「好きなように」という思想。トランプ大統領が掲げた「アメリカファースト」はその典型であり、「アメリカは好きなようにする。ほかの国は勝手にやってくれ」ということです。
バイデン大統領になっても、同じです。「やる気がないアフガン政府軍のために、アメリカ軍の若者が犠牲になることはない」とはっきり言いましたので、まさにそれを表しています。
日本国内で広がっている「自己責任」の考え方も、ベースは一緒です。
「俺は金持ちになった。お前は違うけれど、好きにすればいい。金持ちにならなかったお前は自己責任だ。もちろん!これから頑張って金持ちになってくれていっこうにかまわない。好きにしろ」
という思想ですね。
自由とリベラルを突き詰めてゆくと、「多様なダメ人間も、好きにしてくれてかまわない」という放任(突き放し)へと変化する部分があるということです。
奇しくも新型コロナウイルスで、医療崩壊が起きています。これも同じです。
「医療は限界だ。あとは勝手に家で寝ていてくれ」
という措置が10万人になったとのこと。トリアージの考え方も同じで、
「救う順番は、こっちが決める。あとは待ってろ」
ということです。
結局のところ、「万人を救いたい」というリベラルであっても、前回お話したように
「限界値」
が実は最初からあるのだ、ということなんですね。ただ、これまでのリベラルは、その限界値の存在を見ないフリをしたり、気づいていなかっただけなのかもしれません。
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こうした「好きにしろ」の時代がやってくることは明白なのですが、私はこのことを
”これからは戦国時代がやってくる”
と表現するのが適していると考えます。
ネットでは、こうした事態を「これからは中世に逆戻りだ」と表現する人もいるようですが、基本的には似たような考え方だと思います。
戦国時代というのは「誰もが王を目指せる」時代であり、万人にチャンスが与えられています。これまでのように「家柄、貴族の出」でなくても、「好きにする」ことができるので、なり上がる人たちが続出し、戦いは激しさを増します。
なので、「自由でリベラル」でもあります。豊臣秀吉のように、貧しい階層の出身だからといって、差別されることがないからです。
しかし、その一方で、大量の屍が出ます。死屍累々の山が築かれて、たとえ戦国大名であっても、疲弊したり殺されたりします。
インフルエンサーとなった誰かさんが、引きずり下ろされたり、「何者にもなれない」引きこもりのドンづまりが量産されるのも、この時代の特徴です。
なので、いわゆる封建的な「縛りが多いけれど、その縛りの中ではなんとか生きてゆける」ような「反リベラル・反自由」の社会とどちらが幸せかはなんとも言えませんが、まあ、そうなるのは時代の流れである、ということだけはわかります。
(これは結婚問題でよく取り上げられます。昔は封建的で家と家とのつながりがあったので、どんな若者でもほぼ全数「くっつけられた」のに対して、現代は自由なので、くっつかない選択も増えた、という事例です)
戦国時代を生き延びるには、多くの能力・力が必要になります。封建社会であれば「ひとつの力」で済みました。役割が決まっているからですね。
(会社員で”経理畑一筋”というのが成り立った時代がありましたね)
ところが戦国時代においては
◆ 直接的武力
◆ 資金力
◆ 主君を選ぶ能力
◆ 主君から睨まれない力
◆ 裏切ったり、主君を変える判断力
◆ 攻撃と撤退の切り替え力
◆ 成り上がる力
など、ありとあらゆる能力が必要になります。(あと、運も)
現代日本などの先進国においては、直接武力は「経済力」に置き換えられていますから、ありとあらゆる方法で「稼ぐ力」が求められてくるわけです。
それだけではありません。
◆ 肉体、精神的健康を維持できるメンタル
◆ 家庭を持ち、維持する力(非離婚力あるいは再婚力も含む)
◆ 子供に高等教育を提供する余力
◆ 転職力
◆ 副業力
◆ 災害を避ける立地を選ぶ判断力
など、多方面での能力がないと、すぐに貧困(足軽の屍)へと転落することがわかっています。
ですから「好きにしろ」の時代においては
”全集中”
どころか
”全包囲”
での戦い方が必要になるのです。これはまるで、ゲリラがどこから攻めてくるかわからないアメリカ軍の「ベトナム戦争」や「アフガン戦争」に似ています。
ベトナムゲリラや、タリバンが勝利したのは、こうした多方面からの攻撃によるところが大きいわけですね。
さて、今日の話を読んで、これから「戦国時代がやってくる」ことは理解できたと思いますが、それでも心のどこかでちょっとした「ひっかかり」が残っていることと思いますので、次回はそれを手当てしておきましょう。
そのひっかかりとは、次のような疑問です。
「なるほど、これから中世のような戦国時代がやってくることはわかった」
「しかし、これほど文化や歴史が発展をみせた先進国において、自由やリベラルの良さも判明しているのに、どうして”逆戻り”するのだろう」
「現代から中世へ、というのは”逆転”なのではないか?文化の進化において、なぜそんなことが起きるのか?そこに違和感を感じる」
次回は、この謎に迫ります。納得の事実が登場しますので、こうご期待!
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