【宗教2世ごろごろケア日記09】キリスト教が抱える本質的矛盾がわかったぞ!
宗教2世について、ごろごろ寝転がりながら考えるはずだったこの連載、今回はかなりヤバい攻めたお話をする。
え?ちょっとまって!これどういうこと!?
とムクッと起き上がり立ち上がり
「ユーレカ!!!!」
と叫びだしてしまうような、そんなお話だ。
エホバの証人の2世だった私の過去を含めて、いま「従来の伝統宗教」でも「2世が実は思ったり感じてきたこと」がたくさん表に出るようになってきたけれど、そこには
「キリスト教系宗教全体に横たわる問題点」
みたいなのが、山ほどある。
なぜ2世は悩んだり苦しんだりするのだろう。あるいは1世であっても、実は悩んだり苦しんでいる人がたくさんいるに違いない。
いったいどうして?
そこには、こんな恐ろしい構造が隠れていたのだ!!!
というわけで、今回は「キリスト教が本質的に内包する矛盾」についての発見を書くことにした。これは結構、神学論争にまで片足を踏み込んだ「ガチ」な話だが、まあ、ついてきて。
キリスト教系宗教に絡んだことがある人は、それこそスッキリ「目からうろこ」が落ちたような気持ちになるはずだ。
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結論から言おう。キリスト教は、本質的に「精神分裂」したような「矛盾構造」で出来ている。しょっぱなから「統合失調症」になるようにできてる。
どういうことか?
答えはシンプルだ。要するに
「旧約聖書」と「新約聖書」の構造、思想、理念がまったく逆
なのだ。言い換えれば
「旧約聖書」と「新約聖書」はまったく別の、真逆の宗教だ
ということになる。そんなもんを組み合わせれば、かならず矛盾するし、精神が分裂する。当たり前の話だ。
問題なのは、現代の世界中のキリスト教徒が、その矛盾をそのまま抱えながら、アンビバレントで二律背反の状態を「そのまま」受け入れ、その上で「献身」していることではないか?
そこには「本質的に抱えている矛盾・背反」への検証がいっさいなされず、盲目的に「そのまま」受け入れるように促されているという問題点があるのだ。
わかりやすいようにかなりシンプルに聖書の構造論について説明しよう。
<1> 聖書の筆記者は、かなり意図的に「誤解」を生じさせるように編纂している。
・・・もともと、旧約聖書の段階でもそうした恣意的な編集は多々あって、読者の誤解を誘導するように書いているところは多いのだが、新約聖書との統合にあたっても、構造的な「ゆがみ」を無視して、「誤解」を多く発生させるように書いている。これはかなりハイレベルな心理誘導だ。
わかりやすい例として、モーセの出エジプトでの場面を説明しよう。いわゆる聖書の神「エホバもしくはヤハウェ」は、エジプトの神と「どっちが強いか」10番勝負(十の災い)をやるわけだが、聖書を読むものは「エホバが真の神で、エジプトの神は偽者で力がないから、エホバが勝つんだ」と読むように誘導される。
しかし、あそこは本当は「神々が中東にたくさんいることは前提で、それぞれが力や奇跡を起こすものと思われていて、聖書側の人間はエホバが”一番強い神である。ナンバーワンだ!”と実は言っているのだ。だから聖書の世界は、本当はずっと多神教で、「俺はかみさま王になってやる!」なワンピースな世界観なのだが、心理誘導によって「絶対神ただ一人」であるように読者は読まされている、ということになるだろう。
(たぶん、聖書の編纂過程でどんどん、そう書き換えられていったと思う)
誤解は「金の子牛」の箇所にも仕組まれている。実は知ってる人には有名な話だが、エホバは「牛の神」だ。牛の姿をしていて、牛への信仰と密接に関わりがある。
だからモーセが留守の間に「牛の神の像を作って崇拝しよう」と民衆がなるのは当然なのだ。だって牛の神なんだもん。
ところが聖書の筆記者は、あそこの箇所を微妙に改変して誘導する。もともとの発想はおそらく「エホバは牛の神だが、偶像そのものはただの像なので、そっちを崇拝するのは意味ないじゃん」ということを当時の指導者は書きたかったのだろうと思う。
ところが、現行聖書の筆記者は「神は牛ではない」「牛はまったく無関係だ」と読ませるように該当個所を改変している。なので、エホバが本来”牛”だったことも、記憶から消されるように誘導しているのだ。
とまあ、挙げれば切りがないのだが、聖書はそういう「誤解をもって誘導する」ということをめちゃくちゃやっている書物だ。契約書の下に、ちいさい字で但し書きを書いてるみたいな、怪しい通販みたいなことをバリバリやってると思った方がいい。
<2> 旧約聖書と新約聖書は、真逆の内容である。
旧来のユダヤ教そのものだけが存在していた時は、それほど問題にはならなかっただろうけれど、初期キリスト教団が旧約聖書を取り込んだ時に、これまた誤解させる誘導をやらかしている。
それはイエスがたまたまユダヤ教下の環境に生まれたので仕方がないのだけれど、まったく違う地域で発生した宗教のほうが、よかったのではないか?と思うくらいだ。
■ 旧約聖書 ・・・神の言うことを聞け、言うことを聞かないとぶっ殺すぞ。
■ 新約聖書 ・・・イエスは他人を愛し、赦し、親切にすることをモットーとした。
シンプルに言えば↑だ。「ぶっ殺すぞ」と言っている人間と「優しくするよ」と言っている人間の話をくっつけたのが旧新聖書の合本である。
これ、DVやモラハラと構造がまったく同じで、片方で配偶者や子どもをぶん殴りながら、その直後に抱きしめて「ほんとうはお前のためを思っているんだ」と優しく語りかけるヤツと構造的には同じだ。
こんなのは、本来であれば「頭イカれてるヤツ」なのだが、聖書の編集者は、どこまでも整合性を整えようと改変を続ける。
なので
■ 本当は神は愛なのだ。(イエス側の思想を「妬む神」にくっつけた)
■ イエスの再臨にはハルマゲドンが起こる (旧約側の思想を、イエス後にくっつけた)
という構造ができあがる。
本当は旧約の神は愛なんかではなく、滅びと災厄を用いながらコントロールしたがる神だ。アブラハムを試して、イサクを殺させようとする、ヤバいサイコパス神なのだ。
逆にイエス自身は、たぶん「愛の人」でまったく問題はなかっただろう。彼は個人的に、他者にとても親切に行動したと考えて差し支えない。しかし、その背景やバックグラウンドに、「旧約聖書の神」をくっつけたことが問題の始まりだ。
ほんとうにイエスが「中東地方に生まれたのではない」人間だったら、こんなことは生じなかったはずなのだ。
<3> 矛盾する二者が、どこで出会ったのか?
現代でも旧約聖書のみの世界観で動いている「ユダヤ教」が存在するように、片方だけなら、教義上の矛盾は特段生じない。今でもユダヤ教は戒律主義で、同族だけのコミュニティを堅持する。聖書の中のヘブライ人たちと同じである。
仮に、新約聖書だけの世界観だったとしても、ちゃんと成立しただろう。「隣人を愛しなさい」というだけの宗教に矛盾はないからだ。ただのボランティア団体みたいなものである。
では、どこの段階で「本来なら矛盾する2つの思想」が合体したのだろうか。それはズバリ、ユダ王国の崩壊とディアスポラ(民族離散)のせいだろう。
古代イスラエルから現代にまで引き続き連続している、あのエリアの哲学として「流浪の民から、統一された国家建設に至る」というイメージが本質的希望として横たわっている。
出エジプトからの約束の地(カナン)の思想もそうだし、ダビデソロモン以降崩壊した「王国の再建」と「神殿の再建」は、悲願だ。
それはイエスの時代にも連綿と続いていて、そのため「イエスの支持者」にとっては、おのずと、「めっちゃ優しいボランティアのお兄ちゃん」と「この人が国家を率いてくれたらいいなあ」という話が合体するようになる。
(イエス時代にはローマの属国だったからだ)
たとえば現代でも、ものすごい篤志家や活動家がいたら「選挙に出て、政治家になってほしい」みたいな運動が起きることは十分想像がつくだろう。
イエスは当時の人にとって、そういう願望を引き寄せた。
だから、「イエスの個人的ボランティア活動」が、民族離散後の「千年王国の到来」と結びつけられることは、たやすかったのだ。それがただの願望だとしても。
構造的には、
「旧約聖書の失楽園の話」+「ダビデの王国と崩壊」+「イエスのボランティア活動」+「イエスのちょっと政治的活動」+「ユダ王国の再建(実態は属州・異民族支配)」+「永遠にユダ王国が続いてほしい願望(独立の希望)」+「楽園の復活」
というブロックパーツの組み合わせである。その楽園は、実は世界中の万人に向けたものではなく、単なる”ユダヤ人の理想郷”の実現に過ぎないのだけれど。約束の地は、あくまでもヘブライ人のためのものだ。
そしてもっとややこしいことに、イエス直系弟子でなかったパウロが「詭弁・誤解・誘導」の最新バージョンとして
「救済対象を異邦人にまで広げる」
ということをやらかしたので、壮大な誤解が世界宗教へと変貌してしまったわけだ。
※ もっとややこしいことに、キリスト教の教義の中心が、パウロ派の教義から「ユダヤ教主義」に戻ってしまったという説もある。
どういうことかというとパウロは「反ユダヤ教かつ、イエス以降」を説いたのに対して、「ユダヤ教主義」では「イエスが誕生することは旧約聖書に預言されていた」という立場を取る。なので、旧約の預言(ユダヤ教)とイエス以降の話が、ここで再びがっちりタッグを組んでしまったというわけだ。
そのため「世界人類への救済」と「特定の者だけを救う」という矛盾がさらに深まることになる。門戸は広いが閉鎖的という現代のキリスト教の構造が、このあたりから出来てくるのだ。
<4> 正しい聖書理解と、脱”旧来”のキリスト教
では、正しいというとおこがましいが、「聖書」の理解とイエスへの理解を「まっとうに」行おうとするなら、どうしたらいいのだろうか。
それは、「宇宙創造神」の話と、「イエス個人の話」を単体で理解することに尽きる。あれは別々の話なのだ。
個人的にむこがわさんは「イエスという男は誰もが惚れるようないいヤツだ」と思っている。それは神の子だからではなく、人間の世界でいちばん最初に
「無償の愛」
を見つけて、自分でやってみせた男だからである。彼は充分に人間のままでも世界を救っている。
その愛ゆえに。
とすれば真のキリスト教とはこういうものだ。
イエスという男の考えに賛同し、自分も隣人に優しくしたいと思うこと。
イエスの復活を待つのではなく、彼がやろうとしたことを”あなた”もやってゆく(象徴的な復活)こと。
天地創造されたこの地上は、神の目には「良きもの」として完成されていること。
この世界に起きている「多くの悪いこと」は、人が起こしたものだ。
逆に言えば、その状態から、人の手で、自分たちの手で「正していったり」、人が幸せに生きられる地上を「作っていったり」しなくてはならないということ。
その作業や生き様が「永遠」に繰り返されること。
というものだ。
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むこがわさんは聖書の記述をこんな風に思っている。
「知恵の実」から取って食べたことで、人は原罪に落ちたのではない。
神が創ったこの世界で、そこからスタート段階として、
「人間の知恵で、知識や考えを集めに集めて、この世界を楽園にしてみせよ」
と命じられたということなのだ。
だから神は答えない。私たちにもう任せたからだ。
(つづく)
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