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カルト宗教はなぜブラックなのかを証明しよう。


 現在の日本や、新自由主義社会的な西欧社会では「自己責任」に重きをおいた論調がはびこっていますが、そのことに関連して興味深い記事がありました。


https://toyokeizai.net/articles/-/337633

 教養人にはすでにおなじみの佐藤優さんのお話ですが、「自己責任」のことばの成り立ちや、そのルーツについても説明があります。とても役にたつ記事だと思います。

 その中で、後半から終盤にかけて、とても面白い観点での話があります。それは

「責任があるのは、労働者より、どちらかというと経営者の側である」

「被用者は、自由度や手段が少ないのだから、責任は薄いはずだ」

という視点です。

 もし仮に、「経営者・資本家・雇用者」と、「労働者・被用者」の持てるパワーがまったくイコールであったとしたら、それぞれがそれぞれに対して「自己責任」を掲げることは、かまわないでしょう。

 ところが、実際には圧倒的に「労働者・被用者が不利」であるのに、そちらにだけ「自己責任」をおしつけるのは、不可思議である、ということになるのです。


 したがって、現在の資本主義社会における「自己責任論は、強者が用いる話のすりかえである」ということになるわけですが、それはいったん脇に置いておいて、最後のところで出てきたキリスト教の話に着目したいと思います。


 佐藤さんはもともと、同志社の神学部から、対ロシアの外務官僚になった人です。本人はどう思っておられるのかわかりませんが、私個人は、「現代の大スパイ」の一人だと思っています。これは誤解を招かないようにきちんと書いておきますが、私は佐藤氏を「ロシアのスパイである」「日本のスパイである」「ムネムネの手下である」と思っているわけではありません。

 それらのすべての立場を捨てて、「諜報とは、情報とは、国家とは」という切り口を現代日本において最も的確に脳みそにたたきこんでいる人物は、彼をおいてほかにはいない、という意味で「大スパイ作戦」だと感じているということです。


 その彼の論理的思考のベースにあるのが、キリスト教だというのが、とても面白く感じます。わたくしムコガワも、いずれは

「日本を代表するような痴的好奇心にあふれた、痴の巨人になりたい」

と考えていますが、ベースにはエホバの証人時代のキリスト教がありますから、相通じる部分があるのではないでしょうか。


 話が飛びました。記事の中では、キリスト教は面白い概念を持っていることが説明されています。

「神から見て、人間は堕落した存在で、そもそも自由を与えられていない」

「だから、人間なんかに責任はとれない。責任を取ろうとした人間がいたら、そいつは傲慢だ」

「その代わり、すべての責任は創造主である神が取るのだ」

「そのために、息子であるイエス・キリストに罪を償わせたのだ」

「だからお前たちはもう心配いらない。俺についてこい」

というのがキリスト教だと言うのです。


 もし、本当にこれが世界の真実であれば、このイカしたボスに信服し、

「一生ついてゆきます!」

と宣言すれば、あとは万々歳ということになるわけで、ここに「信じるものは救われる」という話が出てくるわけですね。それこそが信仰だ、ということです。


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 この話を、会社や企業、組織で置き換えれば、もっとわかりやすくなるでしょう。

「仕事上、起きたことの責任はすべて上司である俺がとる。お前たちは一生懸命売って来い!」

という上司と、

「仕事上、起きたことの責任はすべて営業マンであるお前の責任だ。お前が売り、お前が責任を取れ!」

という上司が二人いたとすれば、どう感じるでしょうか?

 最初のボスには、「なかなか器のある上司だなあ」と感じるでしょうし、もう一人のボスには、「ブラックかよ!」と思うほかないでしょう。

 キリスト教が、いちおう世界宗教として多くの人に信仰されているのには、最初のボスのような包容力があるからです。

「人は不完全であり、罪をおかしたりもするけれど、しっかり反省すれば後のことは心配するな、俺に任せておけ」

という教義だからこそ、人々はキリスト教へと入信してゆくわけですね。

「そりゃあ、契約が取れなかったり、お客とトラブったり失敗もあるさ。でも次からやり直せば、後のことは任せておけ」

というボスと同じです。40代以上なら、石原裕次郎の姿でも浮かんでくるでしょう。大門課長が本当に死んでしまい、かなしい今日この頃です。


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 ところが、カルト宗教は、キリスト教や仏教など、時には他宗教などのみせかけの姿をしながら、実はブラック企業の上司のようなことを次々に繰り出します。

「これこれをしないと滅びる。あれこれをすると幸せになれない」

「どこそれをすると永遠に生きられる。なにそれをしないと禍がやってくる」

などなど。

 よーくよーくその理屈を考えると、

「自己責任」

を負わそうとしてくるのですね。ここがミソです。

 ブラック起業とブラック宗教は、ボスが責任を取るのではなく、信者の行いが責任に結びつくように仕組んでゆきます。この構造をしているのは、少なくとも信頼できるボスや神ではありません。

 それはカルト宗教だ、と断言できるでしょう。


 真の宗教というものがあるとすれば、人の責任とは無関係であるべきです。なぜなら、人や生物や、なんかよくわからないけれど、この地上に産み落とされてしまっただけで、ぶっちゃけ何をどうしていいのかもまだよくわかっていないし、責任が取れるほど、しっかりしていないからです。

 しっかりしていないので、環境をいじくって他の生命を滅ぼしたり、資源になるものを取り尽くしたり、たまにお互い殺しあったり、二酸化炭素を吐きすぎたりします。

 そういういいかげんな人間ですから、彼らに責任を負わせるのは無理です。もし、本当に神さまがいるとすれば、世界のありようについてどうこうできるのは、神しかおらず、かつ、それに対して人間レベルで何かをしようというのは、マジでおこがましいぐらいの無力であると言わざるを得ないでしょう。

 けれど、今の段階では、神さまは「神自身がどうこうもしていないし、人にどうこうせよとも言っていない」ので、結局うやむやで

よくわからないまま、人々は右往左往している

に過ぎないのですが、少なくとも

「ブラック宗教、ニセ教団の見分け方」

だけでもわかったので、それはそれで良しとしましょう。今日のところは。


 それにつけても人は、「自己責任」をついついしょいたがるものだと嘆息します。

あなたが不幸で、幸せが訪れないのは武庫川散歩の言うことを信じないからだ!

とでも言えば、満足するのでしょうかねえ。(笑)




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