【神になるための入門講座01】はじめに 〜神になりたいあなたへ〜
みなさんこんにちは。希代の解脱者、武庫川散歩が満を持して執筆を開始した「完全版・神になるためのマニュアル」のお時間がやってまいりました。
これまで「悟りを開くとはどういうことか」「悟りを開くにはどうしたらいいのか」「パンツから解脱者になるには」といった壮大なテーマでいろいろブログやnoteで書いてきたわけですが、いよいよ人類史上に残る名著がスタートするわけです。
題して「神になるための入門講座」!
”え?人が神になることなんてできるの?”
”神になるってどういうこと?”
”読者をバカにしているの?それとも、あんたバカぁ?”
という疑問やお叱りの声がたくさん聞こえてきそうですが、この連載を通じて最後の最後には
「まるっとごりっと”神になる方法”をしっかりお伝えする」
ことができると信じています。
しかし、最終的に「神になる」にしても、そもそも僕たち私たちは「神」がどういうものかよくわかっていないと思います。
みなさんの中には「神になりたい!」と思っている人もいるでしょうし、「なれるなら、ちょっとだけなってみたい」くらいの人もいるでしょう。
しかし、本当に神になってしまい、天上に飛び上がってしまって二度と降りてこれないなら、「やっぱり神になるのはやめとこうかな」と躊躇する人だっていると思います。
いやはや、第一神になったら、あなたは見えるのでしょうか?それとも透明なよくわからない存在になってしまうのでしょうか?
「それでも神になりたい!」という人もいるでしょうし、「透明人間ならぬ透明神は嫌だなあ」という人もいるでしょう。
ですから、簡単にさらっと「神になる」とは書いたものの、実は「神とは何ぞや」ということは、とても難しいお話なのだ、ということも合わせてお伝えしておく必要があるのです。
そこでこのシリーズでは、どんな素人でもいつか神になれるように、順番を追いながら丁寧に神になるための方法を書いてゆこうと思っています。
そして、同時に「神とはいったい何なのか」ということも明らかにして、納得してみなさんに神になってもらおうと考えています。
連載の最終回は、神になるかどうかをあなたに直接問いかけるつもりです。その怒涛の最終回にむけて、みなさんにはちょっと長くなりますが、「神になるためのツアー」に参加していただくという趣向です。どうぞ楽しんで神さまになってください。
さて、今日は第一回ですから、神になるとどんな力を得ることができるのかを考えてみましょう。
そりゃあ神なのだから、なんだかズギュンズギュンして、グワングワンするような、ドッカーン!な力を持てるようになるのではないか?と考えてしまいますよね。
あるいは、人間など思いのままに操って、あなたのやりたいことはすべてやれるような、そんな予感がするかもしれません。
そんな
なんだかスゴいやつ!
が、僕たち私たちが思い描く「神」の姿なんですが、最終目標はその
「なんだかスゴい存在になるんだ!なるぞ!」
ということです。そんなもん、そこらへんの承認欲求とか、「何者かになる」なんてショボい話ではありません。
なんといっても神になるのですから、そりゃあスゴいのです。
もう期待でドキドキワクワクですね!そんなスゴい存在になりたい!というあなたの願いは、最終回には叶うことでしょう。
ところで、ちょっと横道に逸れますが、「神になる方法」なんて話を書き始めると、ツッコミを入れたくなる人たちもいると思います。
「神になるだなんて、どれだけ思い上がっているんだ!」
とか
「そもそもお前は神なのか!人であるくせに、神を語るなんてただの詐欺師だ!」
とか、そういうことを言いたくなってしまうのも当然です。
もちろん、今の私は人であって、神ではありません。ふつうに生活して、パンツをはいたり脱いだりしています。
けれどちょっと考えてください。もし神が本当にいるとして、
「神様は目に見えるんだろうか。声が聞こえるんだろうか。どんな風に現れるんだろうか」
という想像をしてほしいのです。
仏教の世界ではよく、「阿弥陀様に出会った」みたいな昔話があって、その阿弥陀様とか仏様は、「これこれ、こうしなさい」とか人に向かって語りかけてきます。
そのイメージはとてもわかりやすいので、「なるほど、その人は仏に出会ったんだな、あるいはそういう風に感じたんだな」と私たちは思ってしまいますが、果たしてそれでいいのでしょうか?
さあて、その仏教の物語を想像してください。その阿弥陀様とか仏様は、現れて出会った村人に、よくこんなことを言います。
「私の像を彫って拝みなさい。そうすれば村は災厄から逃れられるであろう」なんてね。
でも、おかしなことに、その仏や神は「村人が像を彫らないと、活動できない」わけです。変な話ですよね?
あるいは、あるとき川の中から仏像が見つかって、村人の夢の中でその仏が現れて言うわけです。
「わしを祠に安置したら、水害から守ってやろう」とかなんとか。
あっれれー?おっかしいぞー?
と思いませんか?
その仏様は、どうやら水害を防いだり、災いから村を守るパワーはあるらしいのに、祠を作る力はないということです。あるいは自らの姿を物質化することもできないらしい。オイオイ、じゃあその仏には
「できることとできないことがある。力に限界がある」
ということなのではないか?と気づいてほしいのです。みなさんにも。
どういうことかというと、つまり、その昔話に出てくる仏さまやら神さまというのは、「人知を越えた存在のはずなのに、人ができる物作りすらできない」ということです。
じゃあ、実は「できないこと」のほうがもしかしたら多いのではないか?とも疑ってしまいますよね?
みなさんはそんな神になりたいのでしょうか?
いいえ、私はもっとスーパー・グレイト・ウルトラ・マックスな神をめざしているので、「できないことがある」神などは、偽ものだとわかるのです。
ズババババーン!
では、少し話を戻しましょう。神は目に見えるのか?感じとることができるのか?という話です。
昔話の神仏は、村人や主人公にとって「感じ取れる、認知できる、知覚できる対象」として姿を表しました。
しかし、本当のスーパーグレイトな神は、そもそも「現れる」ことすら不要なのです。だまって村を守ってやればいいし、最初から最後まで水害など起きなければいい。ただ、永遠にその村が平穏であるように仕向けることなど、おちゃのこさいさいです。
いやいや、村人や主人公に神として認知・認識される必要すらありません。ある日ある朝、突然村の真ん中にお堂が出現して、中に像がちょこんと座っていたっていいのです。
「え?なんで?誰がやったん?誰もこんなん建ててないの?一夜でできたんこれ?!」
というのが最強の神仏です。
むかしサイババというインドの行者がいて、空中から物質を取り出すなんてことをやってましたが、サイババでもできるのだから神にとっては楽勝のはずです。
さて、今日のまとめです。実はこれを書いているのは神です。神が私の脳みそを勝手に支配して、まるで「ムコガワが書いているんだよ〜、ムコガワがキーボードを打っているんだよ〜」とみせかけながら、実は神が好きなようにこのお話を書いている、ということだってありうるわけです。
だから「神という対象」に出会う必要もないし、認知する必要もありません。いきなりステーキ!みたいに、もう「いきなり神!」でかまわないのです。
一昔前の教祖様は、「私は神に出会った」と言いました。
ちょっと前なら「私は神の生まれ変わりだ」とでも言う霊能者もいたでしょう。
ムコガワくらいになると
「もう、神に乗っ取られちゃった!」
とでも言っておきましょう。わらい。
神は知覚もさせずに、いきなりこの文章を書き出しており、ムコガワにすら気づかれていない、というのはどうでしょう。
ムコガワが、はっと我に帰れば、後にはなんだかよくわからないアホみたいな文章がnoteに刻まれている、というしくみです。
まあ、そんな感じで楽しくまったりと神になる方法について語りますので、みなさんもぜひこの続きをお楽しみに。
次回も、サービスサービスぅ!
(つづく)
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