見出し画像

【弱者とは何か05】弱者と強者を平等にするには

 これまでの連載で「弱者」というものがどういう存在なのかは、ある程度見えてきたと思います。また、それと比較して「強者」とは何か、あるいは強者は何を持っているのかについても、ざくざくざっくりですが、イメージができたのではないでしょうか。

 そして、お話したとおり、この「何を持っているのか」「いないのか」については、まるで天から降ってきたもののように、

「自分ではどうすることもできない」

ことも多いことがわかったと思います。


 人生は坂道のようなもので、「登るには一歩ずつしんどい思いをしなければいけないけれど、転がり落ちるのは早い」という話もしました。

 ですから、人は何かのきっかけですぐに弱者に転落してしまうということでしたね。


 さて、そうした強者と弱者をとりまく状況が、自然のままであれば、これは弱者にとっては不利で、最初から損な部分があることは明白です。ですから、人間の歴史と文化は、ある程度人々が平等になるようなしくみを試行錯誤してきています。

 たとえば、古いものであれば「悲田院」という施設が聖徳太子の時代に作られたことがあります。

 仏教に基づいて、貧しい人や孤児を収容した施設ですが、これは一定の水準より低い弱者を引き上げる政策と言えるでしょう。

 弱者のために収穫物を残しておく「落穂拾い」という概念もあります。これも、一定水準よりも弱い者への下支えです。


 それとは真逆で、一定水準よりも強いものから「奪う」政策もあります。収入の多い人ほど税率が高くなる「累進課税」制度などが挙げられます。


 こうした実例はもっともっとたくさんあって、基本的に国家や政府というのは、ある程度「強者」「弱者」のバランスを修正する役割を担っています。日本にはこのための制度が、数え切れないほどあります。

 健康保険や、年金制度、障害者福祉、介護保険、雇用保険、傷病手当、児童手当、などなど。その他一定の条件で利用できる補助金や融資なども含めれば、誰も知らないような制度がたくさんあることも事実です。

 それでも、日本には一定数の「弱者」なるものや「経済的貧困」が存在するわけですから、制度が追いついていない面もあるでしょう。


 国家や政府はバランスを取るのが仕事です。しかし、そうした考え方はごくごく最近、第二次世界大戦以降に日本では定着しており、戦前までは、バランスを取ることよりも「天皇家に強者も弱者も、差し出すこと」が強要されていました。ヨーロッパにおいても、産業革命とフランス革命以後の「市民民主主義」が成立するまでは「領主のための政策」が基本ですから、「自由で平等」であることは、まったく考慮されていなかったと言えます。

 ということはそれまでの「弱者政策」というのは

「持てる者が、持たざるものにちょびっとわけてあげる」

という発想だけだったと言えるでしょう。それが、戦後民主主義が広がってはじめて

「持ちすぎたる者と、持たざる者を調整する」

という発想が生まれてきたわけで、たかだか数十年の歴史しかないのです。まだまだ発展途上な概念だとわかります。

 ということは、政府の行う「弱者政策」は今の段階でも不完全で、未完成ですね。そして、私たちが生きている間は、きっと完成せず、不完全なまま進んでゆき、いずれはちょっとずつ改善されるかもしれません。


 この連載の中で、「天から降ってこないので、自分でなんとかするしかない」といったニュアンスのことを書いたのは、冷酷な気持ちでそう言っているわけではありません。実際問題、まだまだ弱者政策は未完成なので、私たちが生きている間に十分なものにならないなら、その部分は自分でなんとかせざるを得ないという悲しい現実をお伝えしているのです。

 もちろん、私個人も、一刻も早く「平等で強者と弱者のバランスが整った社会がくればいいなあ」と願っていますが、これまた「天から降ってこない」ので、自動的にはなりません。誰かが声を上げていったり、誰かが改革改善していかなくては進みません。

 それは、あなたであり、わたしであると思います。どこかの誰かが勝手にしてくれるわけではないので。



 誰かが何かをしてくれたりはしない。ということはとても残酷で、見捨てられたような気持ちになるものです。

 ですが、実は「自分でなんとかしようとする者」にとっても、残酷な出来事が待っています。

 それは、

何かを改善しようとする者には、その恩恵が受けられない

という残酷な事実です。

 2020年の朝ドラで取り上げられた「スカーレット」のモデル、信楽焼の神山清子さんは、息子さんが白血病になり、「骨髄バンク」を日本で創設する運動をなさった方です。

 しかし、神山さんのご努力は、ご自身の息子さんの命そのものには生かされませんでした。つまり、努力は神山さんに直接対価として戻ってくるものではなかったということです。

 これはすべての社会運動や改革に共通する「残酷な事実」です。どんな運動であっても、それが実ったときに自分が直接的利益を受けることはほとんどありません。

 たいていの場合、社会が運動によって変わることができた時には、自分の利益には間に合わないのです。

 私も高校生の時、生徒会長でしたから「制服等を自由にしよう」という活動を生徒会でスタートさせたことがあります。仲間や後輩たち、あるいは先生たちもその運動について、一定の理解をしてくれましたが、最終的に制服が学ランからブレザーに変わったのは卒業して5年くらいたってからでした。

 おいおい、制服がなくなる話がブレザーになったのかよ!

ということですが、それでも関係者全員が前向きに検討して頑張った結果でも、そんなものだということです。ましてや、私自身の制服にはなんの関係もありません。間に合わなかったわけですね。


 公害と戦った人たち、女性の社会進出を進めようとした人たち、などなど歴史の上ではいろんな「弱者」がより平等を求めて声を上げてきましたが社会が少しでも平等に近づいたのは、もっともっと後のことでした。

 「どうせ自分には関係がなく、利益がないんだ」ということはまったくもってその通りです。あなたが頑張ったとしても、結果は100%あなたには関係ないと言えます。

 それでも「やるんだ」「やらなくてはならないんだ」という使命を持つ人がいるからこそ、社会は変革していきます。ですからこれは、個人の損得ではありません。そして、「持てる者」「強い者」はそもそも最初からそのことで困っていないので彼らは何もせず、声を上げるのは常に「弱者の側」であるということも残酷な事実です。


 「持っていない、弱者である者が、利益を得られず、結果も入手できないのに立ち上がらなくてはいけない」

という、あまりにもマイナスだらけの、ものすごく恐ろしいことが、

「弱者が救われるための方法」

であるということです。それでも社会が少しずつ変化してゆくのは、これを乗り越える人がそれぞれの時代に何人かずつでも必ず存在するからです。

 これは、ものすごい人類の力だと思います。人類の希望でもあります。


 私たちは弱い存在ですから「救世主が現れればいいな」とか「ヒーローがなんとかしてくれればいいな」と思いがちですが、おそらく真のヒーローは、そうした「弱者が立ち上がった者」ですから、彼は最初から万能なのではなく、血のにじむような思いをして坂道を上り続けているわけですね。

 その姿に感銘を受けて、たとえば「持てる側の者でも、できるかぎり手助けしたいと感じる」し、「弱き者でも、わずかな力を協力したいと思う」のです。

 残念ながらアイアンマンのようなお金持ちが、空を飛んできて弱者を一方的に救ってくれるということは、ないと思われます。

 たまに、100万円ずつ配ろうとするお金持ちは現れますが。 


 就職氷河期などに遭遇して、非正規雇用になってしまった人は弱者です。私は時期的には同じ第二次ベビーブーマーですが、一番最初の就職が公務員だったために、なんとか難を逃れました。

 それは運のようなもので、まさしく「天がたまたま与えてくれたもの=強者」ということになるでしょう。

 政府は「就職氷河期世代をなんとかしなくちゃなあ」と言っていますが、実は氷河期世代はもう45歳過ぎていますから、今となっては大企業でも45歳すぎが次々リストラされているので、強者も弱者も関係なく坂道を転げ落ちていることになります。

 あと10年もすれば、教科書に「就職氷河期という世代があった」と一行載るだけで、ほとんど「ジュラ紀」とおなじ扱いになるかもしれません。誰も声を上げなければ、それらは素通りしてゆくだけだったりします。悲しいけれど。

 しかし、ジュラ紀にどんな恐竜が絶滅したのか、誰もよく知らないように、就職氷河期世代が通り過ぎてしまえば、誰もが忘れてしまいます。私は実は10万人に一人しか罹患しないという「ギラン・バレー症候群」という病気にかかったことがありますが、知らない人から見れば

「へえ、そうなんだ。そういう人がいたんだね」

ということで素通りされてしまうのと同じです。この病気、ついこの間まで高額医療の対象外でしたから、治療に何百万円もの実費が必要だったのが、いろいろな運動によって高額医療が適用になって、月7万円以上はかからないようになりました。これも、初期におなじ病気になった人は、実際にたくさんのお金を払っているわけですね。


 いま実際に何がしかの弱者であるという人は、2つの道があると思います。

 一つは、それを社会に訴えて、自分は利益を享受できないかもしれないけれど、人類の課題として戦っていこうという道です。

 もう一つは、社会のことはとりあえずほっておいて、自分個人が生き延びるささやかな道を探そうという道です。

 どちらにしても、坂道を登る必要があることには変わりありませんが、どれくらい茨の道を登らなくてはならないのかの差は大きいと思います。ただし、人類の課題に挑戦する人には、思いもよらない多くの味方が生まれるかもしれません。個人の道を歩む人には、今すでにある福祉施策や方策しかサポートがないかもしれません。


 今回もまた、残酷な部分がいくつかありましたが、けして気落ちしないでください。いずれにしても、サポートや味方がゼロではありません。あなたがまだその施策を知らないだけかもしれないので。


 





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?