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ヴォルテールで読む「宗教2世」論


 哲学×宗教2世 のシリーズも、今回で3回目です。ニーチェ、フロム、ときて、今日は「ヴォルテール」と参りましょう。

 以前はドイツ哲学でしたが、ヴォルテールはフランス哲学ですね。

 その生涯はともかく、名言がたくさんありますので、ビビビと来ることも多いのではないでしょうか。


「人間は言うことが無くなると、必ず悪口を言う。」
「人を判断するには、どのように答えるかより、どのような問いをするかによるべきである。」
「常識はそれほど一般的ではない。」


などは、SNS時代を先取りかよ!と思わず納得してしまいます。

 大きなニュースや話題が出てくると、SNSでは広く議論が交わされますが、ちょっとネタに新鮮味がなくなると、今度は互いに悪口を言い合う・・・。

 なーんかどこかの界隈でも、よく目にする光景ですね。ましてや、Twitterの常識は、社会の非常識とも言われるし(要出典)、私たちも胸に手を当てながら、思い当たるところを反省したいものです。

 かっこわらい。



 また、武庫川さん個人としては、いわゆる「神なき後、どのように生きるか」という問題にも、ヴォルテールがいくつか言葉を残しているのが気になります。

「もし神が存在しないなら、神をつくり出さなくてはならない。」
「自由であろうと望んだ瞬間に、人は自由となる。」
「私がいるところ、それが地上の楽園だ。」
「神と私はお互いに挨拶はしますが、話はしないのです。」

 このあたりの言葉は、まさに今の武庫川さんや、自由なる元・宗教2世の心境を表したものと言えるかもしれません。

 過去から自由であり、神を否定し、そして自分の生き様こそを楽園として肯定して生きる!

 なんて素敵なことじゃあーりませんか(笑)

 最後の一文なんかは、先日、武庫川の連載note「This World」で書いたことそのままです。神は私たちに干渉しません。神(創造主)がいるかもしれないな、と挨拶くらいはしても、話はしないのです。



 あるいは、宗教2世がらみでは、「親ガチャ」を踏まえて、こんな言葉も残しているヴォルテールさんです。

「人は誰でも、人生が自分に配ったカードを受け入れなくてはならない。しかし、一旦カードを手にしたら、それをどのように使ってゲームに勝つかは、各自が一人で決めることだ。」

 宗教2世である、という過去をひとたび受け入れ、納得したあとは、自分の人生を生きてゆかねばならない、という覚悟を促されているようにも感じます。

 親ガチャ、環境ガチャ、国家ガチャ、宗教ガチャ、などなど。人はいろんなガチャによって、最初に配られたカードが決まってしまいますが、そこからどう挽回してゆくかは、その人次第である、ということですね。




「何はともあれ、我々は我々の畑を耕さなければなりません。」

 これなんかもいいですね。宗教2世問題、社会的に騒がれてはいますが、僕たち私たちは、まずはおまんまを食べねばならないのです。みなさん、お仕事大事ですよ。


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 さて、話のマクラはこれくらいにして、いよいよ本題です。

 ヴォルテールと言えば、絶対にこれだ!というくらいの名言があるのですが、実はややこしいことに「実はヴォルテールはそんなこと言ってないらしい」という裏話がついてくるので、まあ、そこらへんは笑ってごまかしながら、読み解いてみましょう。


 その名言

「私はあなたの意見には反対だ。だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る。」

というものです。民主主義の根幹となる理念をよく示している言葉なので、きっとどこかで目にしたこともあるでしょう。


 民主主義やリベラルという考え方は、「互いの意見を尊重する」というその部分に尽きます。人と人とが、平等であり、互いに等しい人的権利や尊厳を有していると認めるからこそ、「反対意見であっても、それは尊重する」ということが、理念の柱になるわけです。


 ところが、宗教2世界隈をよーく観察していると、どうも「民主主義ではない」言説がけっこう飛びかっています。

 宗教1世や宗教2世の間には「信教の自由」というまさにヴォルテールの言うところの「意見」の相違が横たわっているわけですが、

『どんなに間違っている宗教や信仰であっても、それは信教の自由として認められなくてはならない』

というのが、民主主義の根幹であり、かつ日本国憲法に明記された法である、ということが大前提に来ます。

 そうすると、宗教2世がもし「民主的で、日本国憲法に従う」のであれば、

『どんなに間違っている宗教や信仰であっても、2世はその教えに大反対だが、1世がそれを信仰する気持ちは命をかけて守る!』

と決意しなくてはならないわけです。

 これが、”THE 民主主義”なのですね(笑)


 ところが実際には、宗教2世界隈には憲法違反?がはびこっています。

『間違っている宗教や信仰を、親に捨ててほしい』
『間違っている教団は、つぶれてほしい。解散してほしい』

という目的を持って活動している人たちがいたり、実際にそう願っている宗教2世がたくさんいるわけです。


ヴォルテール的には、「間違っている教団でも、命をかけて彼らを守る」「間違っている信仰でも、親が信じることをかばおう!」というわけです。


 うーん、これは一体どういうことだ?

と、みなさんも「民主主義VSカルト宗教」というものすごい袋小路を見つけてしまったような気になることでしょう。


 なぜこんなことが起きるのか、みなさんも宗教2世当事者として、あるいは傍観者としてじっくり考えてほしいのですが、実はこの問題には「宗教2世問題」を読み解くためのカギやヒントがたっぷり詰まっているのです。


 整理してゆきます。


<1> 非対称になっている「宗教」と「民主主義」

 なぜ、民主主義どおりや、憲法どおりに解釈すると、宗教2世が宗教1世の信仰を守らねばならないのか?

 この謎が生じる理由は、元々「宗教や教団、組織」というものが、「非民主的」であるからです。

 平たく言えば、「向こうが憲法違反なので、こっちも憲法違反で対抗せざるを得ない」というのがわかりやすいかもしれません。

 つまり、「宗教や教団」は子供たちにも「こうしなさい、ああしなさい」となにか教義を押し付けてくるので、そもそも最初から『自由を認めていない・こちらの意見を認めていない』のですね。

 向こうが、「教義に基づき、この世の意見を認めず、未信者の考え方なんて命をかけて認めないぞ!』と先に言ってきてるのに、2世側は「親のことを命をかけて認める」とすると、矛盾が生じるわけです。

 矛盾を起こさないためには

■ 「教義に基づき、他の意見を認めない」と親が言うので、
■ 「じゃあ、俺たちも教団や親の意見を認めない」と子が言う。

という、「互いに認めない祭り」を開催するか、

■ 「教義とは違うけれど、子の意見を認める」と親が言うし、
■ 「じゃあ、俺たちも親の信仰を認めるよ」と子も言う。

という「互いに認め合う祭り」を開催するしかないわけです。


 現状では、「親子間で、信教の自由の違いを認め合う」ということが確立されていないので、おかしなことが起きるのです。



<2> 権利とは、紳士協定である。不法行為は、法で取り締まる。

 今考えたように、理論的には「どちらも互いに認め合う」というのが民主主義の理想的理念ですが、宗教の場合は「人が考えた理念を超えてくる。人の理想をぶっ飛ばしてくる」という側面があります。

 これは「人間レベルの権利なんて認めない」と公言しているのもおなじで、なぜならそれは「神の教えだから」という話に帰着します。

(神は、神の定めた方法でしか、人の権利を認めない、というのが宗教です)

 ところがヴォルテールも言うように、民主主義の側からすると、「それがたとえ非民主的で、人間の人権を認めないというものであっても、その考え方そのものは守られるべきだ」ということになります。

 では、社会において「非人権的な、人間同士の権利を踏み越えてくるような思想を認めていいのか?」ということに行き着くわけですが、実は現行レベルでは、「実行しなければ、それは考えても良い」ということで一定の決着がついているわけです。

「信教の自由、思想の自由は守られているけれど、法に違反して実行したら、そこから先は取り締まるよ」

というところで、線引きをしているわけですね。

 なので、権利を守ることについては「紳士協定」で、互いに守る気がないと成立せず、逆に、紳士協定だからこそ、それを破って「一線を超えてくる者」には法が作用するよ、という仕組みで現代社会はコントロールされていることがわかります。

(なので、厚生労働省の宗教虐待ガイドラインは、現行法の範疇において、信教の自由に抵触しないように、”不法行為のみ”を問題視しているわけです)


==========

 こうしてヴォルテールの理論で「宗教2世問題」を読み解いてゆくと、解決策として2つの大きな動きが考えられることがわかります。

 ひとつは

「間違った教えであっても、それを信じる権利は親や万人にある。それと同時に、子供たちや信仰している当人以外の周囲は、別の教えなり考えを信じる権利がある」

という方向性です。

 ”俺も、お前も、みんな好きに信じろ。間違っても他人に強制、強要するな、みんな自由なんだから!”

という感じですね。これは民主主義の理念に、最も寄り添った視点だと言えるでしょう。

 具体的には、成人していない子供であっても「それぞれの信教の自由や、親の言うことを信じない自由をも認める」という考え方です。

 もう一つのアプローチは、

「間違った教えを信じるのは勝手だが、ちょっとでも不法行為のラインを超えたら、その瞬間に吊るし上げてやるぞ!」

という考え方です。自由を尊重する代わりに、それが法の下における境界線を超えてきた瞬間に容赦しない、という感じです。

 これは「間違った宗教が、もともと法よりも神の教えを重視する」ことへのアンチテーゼです。

”そっちがその気で、互いの権利や人権を神のせいにして尊重しないなら、人間のルールの厳格さを思い知らせてやる”

という発想になるでしょう。

 民主主義的、というよりかは法治主義により近いイメージかもしれません。

 先ほども例を出しましたが、厚生労働省の宗教虐待ガイドラインはこの方式で書かれています。「ここから先はアウト、実際に子どもに、あれこれをさせると違反」ということを逐一示すやり方ですね。



 ということは、結論に近くなりますが、「宗教や教団をつぶす」とか「組織をなくす」方向で動いている人たちは、究極的には

「不法行為が行われたことの積み上げを行い、民事・刑事ともに事件化して裁判にかけてゆく」

ことでしか組織を潰せないことがわかると思います。(つまり、不法行為のラインを”超えた”という証拠を積み上げてゆくしかない)

 それ以外では、仮に「国家転覆をいつも夢想している教団」が存在しているとして、実際には何もせず「自民党つぶれたらいいよね〜」と毎回集会で言い合っていたとしても

”結社の自由、思想信条の自由、信教の自由”

が憲法で守られているわけですから、ヤバいけれど国民は彼らを全力で認めなくてはいけない、となってしまうのです。


 とまあ、ヴォルテールの思想を突き詰めてゆくと、宗教2世問題のコアなところに行き着いてしまう、というお話でしたが、みなさんもそれぞれ、自分の中のあなたとヴォルテールの二人に、意見を戦わせてみながら、


何が正しいのか


について考えてみてください。

 その中で、あなた自身のスタンスがはっきりしてくるかもしれません。


 もしかすると、「俺はやつらの自由を認めない!親なんて認めない、教団をぶっこわーす!」という”非民主的なヤバイ自分”が、あなたの内部にいることに気づいてしまうかもしれませんが、それでもヴォルテールは、(考えているだけであれば)そんなあなたを全力で応援してくれるでしょう(笑)


 おしまい






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