見出し画像

元首相銃撃事件と「シン・エヴァンゲリオン」

 安倍元首相銃撃事件については、すでにいくつもの考察を重ねてきたが、今回は、日本中を揺るがせたこの大事件に、そこはかとなく流れる

「エヴァみ」

について論じてみたい。

 まあ、たいていの人は、「銃撃事件」と「エヴァ」を重ねて論じることなど、思いつきもしないだろうが、カルト宗教や聖書に詳しい自称「解脱者」としては、あえてこの論点を提示しておきたい。

 エヴァみ、つまり「エヴァっぽさ」と少々やわらかな物腰で書いたが、解脱者ムコガワの本音はもっと「ドぎつい」ものである。

 あえて言おう。

「安倍元首相が殺される世界線と、シン・エヴァンゲリオンの世界線は、単なる比喩やパラレルワールドなどではなく、同一線上にある!」

と。


 そのことがズバリわかるのは、今回の安倍元首相銃撃事件の「直接的な原因」である「犯行の理由」が、Y容疑者の、「とても個人的な事情、そして状況によるものであった」という部分にある。

 Y容疑者は統一教会というカルトによって家庭を破壊させられたと述べており、その個人的事情に基づいて元首相を銃撃したが、結果的にそれは日本の政治と社会そのもの、そして宗教界や(警察や文部省を含めた)行政全体を揺るがす大事件となったのである。

 翻って、エヴァンゲリオンという物語は、たった一人の世をすねた青年(のちにおっさん)の「こじらせ」という個人的な事情、そして状況によって、

「世界が何回も破滅させられる」

という物語である。

 もっともっと平たく言えば、碇ゲンドウというおっさんが、優しかった奥さん(ユイ)にもう一度会いたいという超個人的事情によって、世界を滅ぼすインパクトを起こしてしまっても知ったこっちゃない、という物語なのであるが、実は今回の銃撃事件の後に、Y容疑者も似たようなことを言っている。

「このあと政治がどうなろうと、それは知ったことではない」

との旨だ。つまり、社会が大変なことになってしまっても、彼にとってはどうでもいいのだ。超個人的事情の前には、世界はどうなろうとかまわない、という意味において、エヴァンゲリオンのセカイ系と、Y容疑者のセカイ系は同一線上にあると言えよう。


==========

 さて、Y容疑者の家庭を崩壊させたカルト宗教、統一教会の教義とは、

「最初の人類、アダムとエバがいて、エバがサタンである蛇にそそのかされて、浮気をしてできた子供たちが人類であるから、原罪を背負っている」

というものだ。

 比較してエヴァンゲリオンの教義とは、

「最初の存在、アダムとエバがいたが、その前にアダムにはリリスという前妻がいた。人類はリリスから生まれた子孫であり、リリンと呼ばれる」

というものだ。

 あまり宗教に詳しくない日本人にとっては、「どっちもどっち」な「なんのこっちゃ」という話に聞こえるだろうが、統一教会も、カトリックもプロテスタントも、エヴァンゲリオンも「細かい部分は違う」が、大筋は似たようなことを熱狂的に信じている。

 教学上の細かな差異はともかく、西洋社会も統一教会もエヴァンゲリオンも、実は似たような世界線の上に、「今」を描いているということを覚えておいて損はない。

 ちなみに余談だが、統一教会の教義では

「というわけでサタンの遺伝子を受け継いでいる人類は汚れているから、現代に蘇ったイエスである文鮮明がチョイスした男女を合同結婚式で一緒にさせれば、浄化された新しい人類”祝福二世”が誕生して、増える」

という風に続いてゆく。

 これまた余談だが、エヴァンゲリオンの教義では、

「というわけで、人類はリリスの子孫なのだが、第二使徒であるリリスの体液(LCL)から生まれたので、元のLCLの海にみんなが戻って合体すれば幸せになれる」

と説く。

 ようするにどちらにしても現状の人類は「罪」であり、ほにゃららはにゃららして「浄化」されればいいんじゃない?ということを言いたいわけだ。

 さらにさらに、ちなみに言うが、西洋キリスト教の教義では

「というわけで罪を背負って生まれたきた人類を浄化するために、イエスキリストがやってきて、その罪をぜんぶひっかぶって死んだ。だから彼を信じる者は、天国へ行ける」

となっている。

 これらは全部、マジな話で、同一線上で語られている現在進行形の話である。

( あ、ごめん。エヴァだけは虚構で、創作物だったわ。庵野秀明作。)


==========

 懸命なる読者諸君と、庵野秀明だけは、今挙げた3つのうち「エヴァ」だけが虚構で妄想の産物だと知っている。

 それは、虚構を作った本人が「虚構だ」と言っていて、なおかつその世界線はアニメーションの中に閉じ込められているから、僕らは安心してその虚構性を楽しめるわけだが、庵野秀明自身が、実はその掟やぶりを何度も試みていることはよく知られていることだろう。

 シン・エヴァンゲリオンに至る前には、アニメーションを見ている聴衆自身を映像に映し込んで、「虚構と現実のあいまいさ」にツッコミを入れたのは有名なお話だ。

 あるいは今回の「シン・エヴァ」でも

「人類は虚構と現実を同時に信じることができる生き物だ」

とゲンドウ君に言わせているし、実際にお茶の間でエヴァ同士が戦うシーンなどを挿入しながら、

「現実と虚構の境目とは何か」

について何度も訴えかけている。

 これは、庵野秀明的には「現実と虚構は分けられるべきものだ」と言いたいのではない。むしろ

「現実と虚構はいつもシームレスだ」

という点を際立たせたいのである。

 そして、現実にそれは起こった。


 エバがサタンとエッチをしたために、不浄な人類がはびこっているという「虚構」を信じた人たちがいて、彼らによって多大な献金が強制され、「現実」の家庭が崩壊した。

 安倍元首相が統一教会と深いつながりがあるという「推測」のもとに、「教祖そのもの」ではなく、関係者が撃たれるという事件が起こった。

 統一教会という教えが「虚構」の産物であるとするならば、どうして日本中の政治家や、自民党議員の多くが、「現実」の政界でその餌食になっているのか。

 ほらみろ、やっぱり「現実と虚構は、いつもシームレス」じゃないか!


 我々はカルトの虚構性を笑い飛ばすことなんてできない。あるいは「エヴァ」がただのアニメだと笑い飛ばすことなんてできないのだ。

 名も無き一人の人間が、碇ゲンドウのように、世界を揺り動かすことができることを、身を持って知ってしまったではないか。これは虚構なんかじゃない。現実であり、リアルな現在進行形の話だ。


==========

 この事件には、ほかにも「エヴァみ」がちりばめられている。エヴァンゲリオンの名台詞と言えば「逃げちゃだめだ」だが、碇シンジは「逃げちゃだめだ」とさえ言っておけば、行動が伴っていなくても許されてきた。

 そう、「逃げちゃだめだ」は免罪符なのだ。


 翻って、今のメディアを見てみるがいい。

「今回のような銃撃はけして許されることではないが」

という免罪符さえつけておけば、ニュースはなんでも伝えられる。銃撃はダメだが、カルトはヤバい。銃撃はダメだが政治は無茶苦茶だ。銃撃はダメだが政教分離はできておらず、癒着はひどい。銃撃はダメだが、宗教2世はかわいそうだ。銃撃はダメだが、無敵の人は増えつづけている。

 「銃撃は許されない」とだけ免罪符をつけておけば、あとは万事OKなのである。まあ、そのおかげで日本の闇がどんどん暴かれているのだが。


=========

 安倍一族と自民党が、統一教会とベッタリでズブズブだったというが、それを知って、いったい何人もの宗教2世が

「もうやめてよ!自民父さん!こんなのやめてよ!」

と叫んでいたことだろう。もはや彼らはシンジくんにしか見えない。

 とすればY容疑者にとって、手製の銃はさしずめエヴァ初号機か、錬成された「ガイウスの槍」か・・・。

 ”自作銃”という漫画のような虚構性もまた、この事件の”エヴァみ”を思わせるものとなるだろう。

 日本現代史にとって「アベショナルインパクト」となったこの事件。いかにもふざけて書いているように読めるかもしれないが、そう「読み解けてしまう」くらいには、今回の事件は虚実が入りまじり過ぎているのだ。


=========

 そして、私が今回、この事件の”エヴァみ”においてもっとも象徴的だと感じたのは、「ネブカドネザルの鍵」の正体が明らかになってしまったことである。

 シン・エヴァンゲリオンにおいて「ネブカドネザルの鍵」は、いったいどんなものなのかは明かされていないが、それによって碇ゲンドウは「もはや人間ではない」存在となったことが示されていた。

 アニメでは人を捨てて、神に近い存在となったことが示されていたが、現実社会における「ネブカドネザルの鍵」とは、

「もう、娑婆には戻ってこない覚悟」

を意味する。”無敵の人”という表現が巷を席巻しているが、無敵の人であるだけでは、それが即すなわち重大犯罪者とイコールではない。

 何も持たず、何物にもならず、それでも必死に生きている人たちは、この社会にはたくさんいて、彼らがいくら「下級国民」だと嘲られようが、それと社会に牙をむくこととは別物だ。

 しかし、無敵の人が「ネブカドネザルの鍵」を持つと、事態は大きく変わるだろう。

 「もう娑婆に未練はなく、たとえ死刑になってもやり遂げる」と覚悟を持ってしまった無敵の人は、もはや碇ゲンドウに相違ない。社会を捨てたが故に、撃たれても死なないのだ。

 この「私は社会で生きない」、という覚悟は、まさに「人を捨てたか!」と言われるべき存在と等しい。恐ろしい存在である。


 このように、シン・エヴァンゲリオンを通して今回の銃撃事件を読み解き、そして現代社会に向かい合った時、見えてくるのは

「この日常は、虚構と隣り合わせだ」

という危機感である。

 虚構は、こちらが気をぬけばすぐに侵食してくるし、監視の目を緩めれば害悪をもたらす可能性だってあるだろう。(アニメが害悪という意味には取らないようにね)

 宗教という妄想、権力という妄想、政治という妄想、「漫画アニメの世界だろ?」と笑い飛ばせないものが、そこかしこに根を張っている。

(自作銃で首相を銃撃?と聞いた時には、コナンくんの話かと思ったほどだ。もはやこれで、日本の首相を手製の銃で銃撃するアニメは作れないだろう。)

 だからこそ、我々は現実の世界にしっかりと目を見開いて、何が起きているのかを冷静に判断する必要があるのだ。

 これこそが、人類を救う「福音(エヴァンゲリオン)」なのではなかろうか。


(おしまい)










この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?