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演劇思案記 [境目なのか?]

5月18日月曜日
写真は昨日行った。糺の森のなかにある古墳である。日頃いったことない場所でこんな場所があると
気づいて入ったのである。

日が射しこんで明るくならなければ、たぶん、いかなかったし、いつもなら、下鴨神社に参って終わりだったのではないかと思う。

実は京都も昨日から自粛が少しゆるんで、ひとびとは動き始めている。
コロナ禍は第1派が終わりになり、日常へもどろうとしている。約30日。でも、演劇界はそうはいかない。興行的にも、仕事的でも、状況的にも、まだまだ、抑制されだ中でしかできなくなる。
そのうえで、いままでのようには、いかなくなる。

ただこの状況は演劇=社会を映す鏡としては、かなり、本質がみえてくるともいえる。

このことがひとのなにを映すのか?
よくみることだ。

いままでが、おそらく、バベルの塔をめざす飽和しつづけるなかでの、演劇にしかなかったのではないだろうか。

ひとはほんとに演劇がいるのか?
これがこれから、ほんとうに問われる。

でも、いまの私も思うが、また、経済的にも演劇をまわしていくことの次から次へのなかで、忙殺されて、こういうふりかえりをしなくなる。

そういうくりかえしではないこと。
これがコロナ禍後の演劇と思う。

私たちはいいことばかりで生きてはいない。
この地にかならずやくる文明の破壊ともなる地震も想定しながら、演劇はどうあるのか?

いまはいろいろとやり方をかえたオンライン演劇は誰もがいっているが、仮の演劇にしかならない。
生身の演劇がつくる仮なのだ。

さあ、どうなるのか。
コロナ対策をして、
あわてずにぼちぼちみよう。

たぶん、寄り道大切。昨日糺の森がそういう感覚になった。

この文章をつらつら、書きつづけることも
境目をいったりきたり
するのだろうか。

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