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【短編小説】煌々たる荒野より

書いても書いても進捗の芳しくない原稿に、屋敷は頭を抱える。同じような文面ばかりが連なり、読者の欠伸を誘うこと間違いなし。語感も悪い上、構成もくどい。編集に見せるまでもない駄文だ。四時間かけたのに、と若干勿体ない気持ちもあるが迷わず一括で全文を消去。

煙草を吸おうと机の上に置かれた皺の寄った箱を手に取るが、すぐに中身が皆無であることを悟って天井を仰いだ。自分を中心に回る世界の尽くが上手くいっていないような錯覚に陥る。
乱雑にクリップで留められた資料を掻き集め、暫く逡巡した後に屋敷は凝り固まった肩と首の骨を鳴らした。

煮詰まっている状態でずっと放置していても、埒が明かない。正しく時間の浪費である。

そう判断した屋敷は、時計の針が二十二時少し過ぎを指していることに気が付いた。いつもの食事の時間を大幅に上回ってしまっている。椅子を引く音に気を使う余裕もないままに立ち上がった屋敷は、走る意識の赴くままドアノブに指をかけた。

「やあ。俺を待たせるとは、随分とまた筆が乗っていたらしい」

由良は口許に緩やかな笑みを浮かべながらキッチンにて手招きをする。半日かけて画面上の細かな文字と格闘していた屋敷は、覚束無い足取りのまま彼の横に収まった。鉄鍋では油が熱されており、その中には衣を纏った平たく叩き伸ばされた骨付き肉が音を立てながら浮かんでいる。漂う香りからしてラム肉だろうと予想がついた。

「逆ですよ、時計なんて見る暇もないくらい、必死だったんです。如何せん全く進まない」

今日はカツレツか、と働かない頭で思考を巡らせていたら、そんな屋敷の考えなどお見通しと言わんばかりに淡々と「ミラノ風。それも君が来るのが遅かったから二度揚げだ」と告げられた。豚のように肥えちまったら君のせいだぜ、と悪戯じみた口調のまま告げられても、その体脂肪率では説得力がまるでない。

「見ろよ、まるで俺らの布団みたいなラムチョップだ」
「こっちの肉の方が余程上等ですよ、多分」

十年ものの煎餅布団と羊肉を比べるのはあまりに酷だろう。それに、こんなに肉々しさ満点の布団で羊を数えては、流石に夢見が悪そうだ。衣の揚がる音と由良の鼻歌だけが聞こえていた空間で、ふと思い出したように由良は屋敷に疑問を投げ掛ける。

「原稿の進捗はどうだ?センセ」
「全ッ然です。風呂入ったらまた書きます」
「そりゃまた結構。カツレツと一緒にビールでもと思っていたんだが」
「俺はノンアル呑みますよ。あ、そうだ。冷蔵庫に瓶に入ったあれ、見ました?」

瓶、という言葉に察しがついたらしい。珍しい装飾の刻字がされたラベルの貼られたビール瓶だ。英語の筆記体とシンプルなロゴが目に新しいそれは、一昨日に屋敷の向かった取材先にて手に入れた一品だった。

今回の依頼は雑誌のコラム。片隅に小さく掲載されるらしいという前情報だったが、そこは飲食物、特に酒と飯に特化した商業誌。たった数千文字の為に取材旅行を許可してくれた。この手の記事にリアリティは付き物なのである。浴びるように、とまではいかないが数々の珍しいクラフトビールを呑み、その中でも気に入った品を土産として購入し持ち帰って来たのだ。

その際、個人的な土産物は経費では落ちない、と担当編集から三度くらいしつこく忠告されたのだが、彼は屋敷のことを何だと思っているのだろうか。いくら貯えのない貧乏作家とはいえ、その位の金銭は持ち歩いている。

由良がハーブを散らしながら羊肉をひっくり返すと、チーズとパン粉の焦げた芳ばしい香りが辺りに広がる。二度揚げという由良の宣言通り、風に乗って鼻腔に混じる焦げたチーズが強いような気がした。

「取材ってのは、ビール会社にでも行ったのか?」
「ええ、酒蔵に行ってきました。いい経験だったと思ってます」
「ふうん」
「由良さんも今度一緒に行きましょうね。旅行で」
「ビールも悪かねぇが、俺好みなワイナリーの紹介を頼みたい」

彼の酒の好き嫌いは、味ではなく酔いやすさで判断されていることは知っていた。彼曰く、適度に酔えて、適度にいい気分になれるのがイコール良い酒だと。ビールは旨いが頭に響く、とは彼の談である。

「ま。今日は折角だし、ご相伴に預かる事にするかね」
「ご相伴というか、俺呑めないですけどね今日」
「そういやそうだ。じゃあ、お先に?」
「知りませんよ」

意図せず若干苛立ったらしい口調になってしまったのが恥ずかしくなった屋敷は、そっぽを向いた。そんな彼の垣間見えた歳不相応さに、にやにやと嫌らしい笑顔を浮かべた由良は無遠慮に屋敷を眺める。

「そう拗ねるなよ」
「別に怒ってませんけど。それよりほら、カツレツ」

泡が浮かんでは弾ける音の間隔の狭さが、完成が近いことを示唆していた。由良は菜箸で端を突いたり、肉をひっくり返したりしていたが、とうとう皿に移す。パセリやローズマリーなどのハーブが羊独特の獣じみた匂いを調和し、歯応えの良さそうな大きな欠片のパン粉が黄金色に輝いていた。
未だにじゅわじゅわと音を立てる肉をレタスやルッコラ、トマトが載った皿に盛り付ける。骨がついているおかげか幾分か野性味に拍車がかかっており、屋敷は微炭酸と偽物でないホップの苦みが恋しくなった。

「今日は遅いし呑むから俺は食わんが、屋敷くんは飯食うか?炊けちゃいるぜ」
「いえ。満腹になると眠くなるので俺もいいです」
「作家様も大変だな」

由良は皿を二つテーブルに運ぶ。ビールを注ぐ為のグラスをひとつ手に取った屋敷は、少々迷った後にもうひとつ、戸棚より取り出した。一人がグラスで一人が缶のままというのは風情がない。冷蔵庫の中からしっかり冷えた瓶と、見慣れたパッケージの缶を引っ張り出してテーブルに並べる。まるで瓢箪のような中央の窪みが特徴の、爪の厚みほどの薄さのガラスで作られたヴァイツェングラス。

「じゃ。健康と」
「君の原稿に」
「上手いこと言わないでください」

立派な泡が膨らむグラスを互いに傾け、涼しい音と共に合わせる。口に含めば成程、フルーツのような爽やかな酸味と舌先を震わせる苦味、鼻から抜けるスパイスの香りが華やかな後味を醸し出している。上等な一品だ。

由良が舌鼓を打っていると、眼前の男が物欲しそうな視線を送っていることに気が付いた。敢えて無視して杯を進めていたがいい加減鬱陶しさが勝り「一口呑むか?」と口にすれば途端目を輝かせる。現金な野郎だ、と口の端に笑みを浮かべた由良はまた半分グラスに残ったビールを屋敷の傍に寄せる。

美味い、と破顔しながらも、やはり原稿の進捗が気になるのかちびちびと啜る屋敷を尻目に、由良はナイフとフォークを使って骨から肉を削ぎ落とした。チーズとパセリの香り纏った衣だが、香り立つ血肉の獣臭さは消えていない。独特の風味に面食らう人間もいるのだろうけれど、由良などは寧ろ逆で、均等に揃えられた美しい脂身よりも好ましくすら思っていた。

切り分けた肉から五感に直に伝わるのは、羊の心臓の脈打つ音、聞き及んでいた風の音、咀嚼した草の青さに大地を悠然と駆け、踏みしめる足。生きていたのだ。何工程にも及ぶ調理を経て、皿の上にいくらお綺麗に飾られたところで、自分達が獣のように、生物を狩って食らっていることに変わりはない。

「由良さん、ジビエ好きですよね」
「ああ。肉食ってる感じがするだろ?」
「分からないでもないですけど」

少々納得しかねる、といった口調のまま屋敷はルッコラにフォークを伸ばす。程よい青臭さと苦味が、口の中を占めていた野性を中和した。嫌いではない。苦手というほど避けてもいない。しかしやはり、癖の強い味に慣れることはないのだろうと屋敷は思った。何年経っても腹の内の読めない目の前の男のように。当の由良は歯を剥き出しにしながらさも愉快そうに笑う。機嫌が良いのではなく、酔っているのだと判断出来るくらいには、付き合いが長くなってきていた。

「人間なんざ所詮、どれだけ工夫し目を背けたとて、生態系に囚われたひとつの生物でしかねぇ。そう思えるから好きなんだ」
「似合わないくらい殊勝なこと言いますね」
「俺ァ繊細な男なのさ」

そう言った由良はわざとらしく肉に犬歯を突き立て、繊維を噛み千切る。この人が繊細ならば世の中の鴉は全部白色だ、と屋敷は半ば呆れながらグラスに口をつけた。唯一繊細と言って差し支えないのは、彼の神経質に整えられた指先くらいなものだろう。唇の周りについたパン粉を拭う親指の爪は男と旧知であればあるほど意外に思うくらいには丸く、短く、骨ばった長い指に可愛らしく収まっている。

「由良さんのピアノ、また聴きたいな」
「ンな酔狂な事言うのはお前くらいなもんだ。いや、それこそ殊勝、かな」

酔いに任せてか、彼の上機嫌に飲まれたのか。屋敷の口端から零れた言葉に由良は再度声を上げて笑う。目尻に浮かんだ柔和な光には怒りや憎悪の色は滲んでおらず、屋敷は人知れず安堵の息を漏らしそうになり、泡と炭酸で流し込んだ。

「子守唄でも弾いてやろうか、坊や」

意地悪に細められた瞳から逃げるようにフォークを掴み直した屋敷は、思いの外大きな欠片になってしまった羊肉に合わせて口を開き、筋を潰して噛み切るように歯を突き立てた。

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