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フロ読 vol.32 武石彰夫訳注 『今昔物語集 本朝世俗部(三)』 旺文社文庫

図書館リサイクル本。『今昔』は部数が多すぎて、手あたり次第買ってしまった私には、自分でもどこまで何を所持しているかがよく分からなくなっているので、とりあえずもらっておくことにする。
 
巻第二十七は本朝。「付霊鬼」が気になってフロに持ち込む。
 
期待通りの怪異譚が続くが、川原院に出現した源融の霊は、宇多院に叱責されて姿を消し、桃園の寝殿の辰巳の柱から現れる謎の手は、経文では止めることができなかったものの、征矢によって制せられる。ところが、僧都殿に現れた飛行する単衣(「冷泉院の東洞院の僧都殿の霊の語 第四」)は、それを射た兵(つはもの)を「寝死」に殺してしまう。
 
幼少の頃、妖怪ブームがあった。水木しげるはもちろんその筆頭だが、他にも多様な「妖怪本」があったように思う。どの逸話にも多彩な人間模様とともに、為せる怪異の正体が判明するものもあり、しないものもあり、分かりやすい祟りのようなものもあれば、通り魔的な不条理なものもあって、子どもの心を随分とゆさぶってくれたものだ。
 
思えば、それを一生懸命に読んでいた動機の一つに、もし自分で同じような怪異が起きたらどう対処するのかに詳しくありたい、という幼い危機管理意識があったように思う。
 
近江国安義橋なる鬼も怖い。きっかけは怪異のある橋をわざわざ渡った男の軽率さではあるが、橋上の女を鬼と見破って逃げ、陰陽師の助言も極限まで守り、それすら越えて家に入って来た鬼と組み合うなどギリギリまで抵抗した後に、男は命を落とす。『今昔』は、弟に化けた鬼と組合う男に、太刀を渡すのをためらった妻を女の浅知恵として嗤うが、鬼の、

頸をふつと咋ひ切り落として、踊り下りて行くとて、妻の方に見返り向きて、「喜しく」

という一言。肌の粟立つ描写。絶対に逃がしてやらないという鬼の執念のなせる業であろう。
 
昨今のマンガやドラマには、法やルールを無視した執念の勝利という筋のものが多いが、条理に縛られて生きることにみなが飽いてきたということだろうか? お話なのでそれも構わないが、不条理というものをどこか他人事として侮り過ぎてはいないかなと疑問が過る。
 
シャンプーをして閉じた目の背後には誰もいないとどうして言えよう。無視しても怖いだけでしょ? 敢えて見えないモノとの関りを意識してみる方が、ゆとりある人生というやつかも知れないよ?

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