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フロ読 vol.23 松岡正剛 『日本文化の核心』 講談社現代新書

「『日本』って何だろう?」という思いは、いつも頭をぐるぐる回っている。少なくともそれは国家としての日本を指してはいないことを、本書は思い出させてくれる。
 
第一講の「柱を立てる」の段階から、既にして国家日本のどこにもそんな柱は立っていないのが分かる。まっすぐ立つことさえ困難な日本。こんな為体でイスラエル問題など、決して踏み込んではならない。
 
稲作→稲魂→アエノコト→餅→いただきます。第三講の「イノリとミノリ」を読めば、それだけで私たちが何を失ったかは明白だ。苗代という時熟の発想。田の神の送迎。往来。ハレとケ。「出入り」という一事においてすら、我々は時と手間を惜しむようになってしまった。アクセラレイティズムとコロナ禍のダブルパンチで、お正月やお盆でさえ、なくてもよいような雰囲気が漂っている。
 
それでも、日本は「コメを大事にする文化」。どなたかがラジオで言っていた。日本人には宗教が無いというが、そんなことはない。我々はお地蔵さんの顔を蹴ることはできないし、落ちたおにぎりを踏みにじったりすることもできない。それが日本人の宗教だと。
 
オウムのテロ以降、駅からゴミ箱が消えた。テロ対策としてはまことに効果的だ。しかし、その一方で、捨てられなくなったゴミをポイ捨てする人が増えた。若者の公共への意識がよく問題視されているが、一番そこがなっていないのは、どうもサリン事件時代の「ワカモノ」であるように思えてならない。投石に適した石畳の道路はなくなり、道端には「安全な」ゴミが無関心に投棄されて、子どもは暗くなるまで山や川にいることはなくなった。これが果たしたかった「治安」なのか。「ワカモノ」達よ。そもそもあの事件の前は、各人の心に、ポイ捨てレベルの卑怯を許さない気持ちがあったのではなかったか。人の心に巣食うテロルは人の良心によってこそ封じられるべきではなかったか。
 
大嘗会の手順は誠に煩瑣を極める。天皇の行いは非効率的としか言いようがない。しかし、その非効率から確実に立ち上っている稜威をどう説明するのか? 日常のわずらわしくすらある小さな儀礼が齎す一掬の若水を感じることはできなくなったのか?
 
見えない何かを感知できるうちが花。可視化の進む世界で、それは有限でしかないことを念頭に入れて、今一度そこに研究の目を向けるべきだと思う。もう既に古人の非効率的な営みが生んだ様々な効果は探求しなければ分からなく成りつつある。その根底に流れるエートスこそが恐らく本当の日本…。
 
国を挙げての加速主義の中、路傍の花に目を向ける暇はないのかも知れない。それでも時にそれを想い出そうとするならば、時間の流れとネーションに寄りかからない覚悟が必要だろう。そういう「立派」を持つ人間を、西洋では「個人」、日本では「国士」と呼ぶのではないだろうか。
 
本書によって今日の入浴や湯あみではなくなった。本によっては厳格な禊ともなる。これもフロ読の面白みの一つか。 

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