胸を張って生きるために

娘の通う小学校で、日の丸の扇子が全校生徒に配布されてしまった。
これを自分自身の問題として一緒に取り組んでくれる人を1人でも多く募り、地域や学校の保護者たちを巻き込んでいかなくては、私ひとりだけがブツブツ苦情を言ったところで学校も実行委員会も簡単には動いてくれないだろうと思う。
残念なことだけど、無力な肩書きもない1人の朝鮮人の女が何か訴えたところで、そうそう要求が伝わるものではないのが現実だと思う。
まずは身近な人たちから、起こった事を知ってもらおうと思った。
久しぶりの友人をランチに誘ってみたり、職場を訪ねてみたり、コロナが現れてからなかなか躊躇してできていなかった事でも、目的があるとできてしまう。
ちょうどゴールデンウィークだったので、久しぶりに関西の友人たちにも会いに出かけて、話を聞いてもらった。
扇子を持って歩き、実際会う人たちに見てもらって、いろいろな助言をもらいながらこれからどうしていこうか考えていると、次第に気持ちも落ち着いてきて、何がもっとも建設的で効果があるのかしっかり考えよう、じっくり腰を据えて取り組んでいこうと思えるようになってきた。
相変わらず何の返答もしてこない実行委員の方には苛立ちもするが、かといって作ってしまったことやそれを配布する事を許してしまったことを責めて謝罪してもらったところで、それで事は終わってしまう。
問題は、学校の先生や地域で精力的に活動するような方たちでさえ、朝鮮やアジアとの歴史やそれを取り巻く問題の事を知らないということ。
それなりに地位や社会性のある人でもあんな扇子を平気で送り出してしまうなんて、日本の歴史教育、人権教育のお粗末さの犠牲者とも言える。
この現状を補完するには、どうしたらいいのか。
日の丸の扇子は、きっかけでしかない。
これをチャンスに、歴史を学ぶ場や人権問題を共に考える場所を作っていく方向にじっくり進んでいかなければならないと思う。

近くに住む友人は、本名で教員をしながら活躍されている在日の方や、近代史の研究家として在日の権利をめぐる運動に長年力添えしてくださっている日本人の先生などに声をかけてくれた。
そして、その3名の方で娘の通う小学校の校長先生と直に話しに行ってくれた。
これまで、人権をめぐる運動の一線で活動されてきた方々の説得力でもって、せっかくこれまで築き上げてきたものの尊さを踏みにじるような事件だという事を伝えてくださった。
私の人生の先輩でもあるその方たちが、実際に多くの苦労しながらも辛抱強く少しずつアイデンティティや権利を勝ち取ってきた経緯を話すだけでも、相当説得力があったと思う。
校長先生は自分にまだまだ知らないことがあるという事を認め、教員も勉強する機会が必要だという事に頷いてくれたそうだ。

私は友人や環境に恵まれていると思う。
ショックな出来事ではあったけど、それを自分の問題として引き受け、忙しい仕事の合間をぬって集まって話し合い、解決を導こうと努力を共にしてくれる友人が近くに何人もいるということが今回よくわかった。
かえってあんな事があってよかったのかもしれないとさえ思ってしまいそうだ。
でも、初めはなかなか心の内を言い出せなかった。
相手にしてもらえないかもしれない、私にとっては重大な事件でも客観的に見たら些末な事に過ぎないのかもしれないと思って、怯んでしまっていた。
差別というのは、自分自身を過小評価させてしまうのだとつくづく思う。
差別されることは間違っていると頭でわかっていても、差別されるような私、それは「私なんか」に簡単になってしまう。
頭では理不尽に屈する必要はないとわかっていても、心が傷つけられると、私なんかきっと誰にも相手にされないだろうと思い込んでしまう。
すごく傷ついているし、黒いものに取り憑かれてぐるぐる巻きにされている感覚で苦しんでいても、助けてとなかなか言い出せなくなってしまう。
校長先生に話しに行く段取りをしてくれた友人にも、私の話しなんかに付き合わしては申し訳ないから何かのついでで負担をかけなくて済む時をずっと待ってたと言ったら、そんなに気を使わないでいいのよと言われた。
優しい友人なのに、何でそんなに恐縮しまくってたんだろう。
差別が人の心を縮ませてしまう、ということなんだと思う。
話してみたら、こんなにもスムーズにいろいろなことが進み始めるというのに。

私が堂々と、怯むことなく、胸を張って生きられるように、そして、それを娘の世代にパスすることができるように、していきたい。

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