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蛹化の女〜ストーカーにあった知人の話〜

兼ねてよりの知人でSNSをやっているSと云う者が居り、その彼から聞いた話である。

Sの幼なじみで同じくSNSをやっている彼の友人Mがフォロワー達と飲み会を開いた。五月のことである。その日は梅雨入り間近で天候も思わしくなく、体調不良で会社を長期休暇していたSは惜しまれつつも飲み会を辞退、思惑とは反してSNS内でカリスマ化してしまって居るSなのであるからして、彼の飲み会不参加に他のフォロワー達は相当落胆したようである。まあ、当の本人は何処吹く風だった訳だが。「SNSなんてクリアしたドラクエのレベルを上げる様なもの」と何時だったか云っていた彼だ。或る意味達観である。でもそんな暇潰しのレベル上げでカリスマ化しているのだから何をか云わんやとも思った訳だけれども。

そして、その飲み会でのこと。

男女各数名、そこそこ座は盛り上がり盛り下がり、オフ会特有のオンラインとオフラインの綯い交ぜになった会話も徐々に尽きたるその折に、MとS共通のフォロワーの女性TさんがMに「Sさんに暑中見舞いを出したいから住所を教えてくれ」とほぼ哀願するような口調で云ってきたそうである。特に不審も感じられなかったMはお易い御用とばかりにSの住所氏名を彼女に教えてしまう。初対面である。況してやSと彼女は会ったことも無い。Sの承諾も無い。普通はしない、教えるとしても携帯電話なりなんなりに連絡して承諾を得るものである。幾らネットでの繋がりだけでなく実物に会い、数時間共に楽しい時を過ごしたとは云えそんなものは個人情報を教える信用には足らない。そう、Mは莫迦なのだ。後先考えぬ阿呆なのである。因みにMはわたしではないです。阿呆だけど。

――その、一週間後のことである。

Sは多少体調も善くなったこともあり、Mとは別の友人と呑みに行ったそうだ。久しぶりに摂取する酒は病み上がりもあってか何時もより早い酩酊を齎したが却ってそれが心地良く、座は盛り上がり気が付けば日付を跨いでいた。暮らすマンションに着いたのは午前一時過ぎ。エレベーターで六階に上がる。静かな匣の中、見馴れ過ぎて気にもとめない壁の中、目をつむる。軽い目眩。耳に這入るのはうぉんうぉんと云う振動だけ。そうした音と緩寛と回る脳髄に浸されて、さて果たして自分は昇っているものか降っているものか、どちらが天でどちらが地なのか、酔った頭では余計に判じ得ないような奇妙な感覚も手伝って、いつも乗り馴れている移動時間が矢鱈と長く感じたと云う。ぽんッと電子音が鳴る。何時もよりゆっくりと匣の扉が開く。前方に広がるは建造物の構造上、三方をコンクリートで囲まれた昼尚昏いエレベーターホールである。建物の中に這入ってしまえば昼も夜も関係ない見慣れた空間。だが、何故かその時は平素より暗く感じたそうである。ふと自部屋の方向に目をやる。Sの部屋はエレベーターを出て左に曲がり、一旦エレベーターホールを出て更に右側、一番エレベーターよりの角部屋である。蛍光灯の照射で部屋の前の廊下に曲がり角の内壁の影が映る。暗い。暗い暗い。酒の酔いが視野狭窄させるのか、何時もよりも暗く感じる。目を凝らす。影の上、廊下の真ん中、闇が深い。内壁の影よりも黒々とした立体感を伴った黒さ。

――人か?

少し近付く。
影は微動だにしない。
また、半歩。
影は多少――本当に多少ではあるが薄まったように感じる。
だがまだ昏く。影の中のその闇は深い。

更に半歩。
この時もう酔いは殆ど醒めている。
視界が広がる。目を細める。
ひとがた。影は人の形をしている。

認識した途端どっと恐怖が押し寄せる。
内に広がる恐れが躯に伝わりよろめいた足がざりッと床を擦る。

人のカタチをしたソレが身じろぐ。
Sが引く。
ソレがくっと前に出る。
蛍光灯の灯りが影に色と輪郭を与える。

赤い色に白い色、長い髪、ほっそりとした腕――

――女だ。


ゆっくりと女が近付く。眼の色は見えぬ。陰影のせいか穿ったように暗い。
見知らぬ女だ、年は若い。
知らぬ顔だ。知らぬ躯だ。
怖い。恐い畏いこわい。

そして知ったカタチでない女は聞いたことの無い声で――

「○○○○さんですよね?」
「九時からずっと此処で待っていたんです、諦めなくて良かった」
「想像通りの人です、逢えて良かった」

何も善くは無い。
想像通りソレは、その女性は友人MがSNSでの飲み会の折に勝手に住所を教えてしまったTだった。彼女は住所を頼りにSの家に辿り着き、なんと午後九時から夜中の一時までの四時間、彼の家の玄関先に立ち、待っていたのだ。Mからその事を聞いていなかったSは何がなんだか解らない。ただ、SNSのハンドルネームで名前を呼ばれたのが初めてで、取り敢えずその違和感に戸惑い、そんな事に躊躇している自分に失笑した。現実逃避だ。

「お話がしたいです」

彼女が云う。
Sはひたすら困惑する。

「夜も遅いしちょっとだけで良いんです、せっかく逢えたのだから」

戸惑い言葉を発せずに居るSに、懇願口調で彼女は云い詰める。
その声はだんだんと大きくなり、二人の距離も近くなる。
眼が怪訝しい。哀願するような口調なのに顔に表情がない。

――怖い。

見れば、Sに伸ばされた腕に傷痕。
無数、ナイフで切ったような、筋が。

――拙い。

「取り敢えず、此処じゃなんだから」と、家の近くの深夜営業の飲み屋に誘った。平日なのもあって店内の人数は数える程で、飲み屋なのに矢鱈と静かに感じる。此れで騒がしければ少しは気も紛れたものを――彼は少し後悔する。しかし、駅周辺とは云え民家が連なる中、選択の余地はない。彼女はと云えば人心地着いたのか、話せる時間をもてたのが嬉しかったのか、嬉々として自己紹介をしている。聞けば矢張りフォロワーらしい。なんとなく名前は覚えていた。しかし、彼女が彼の言の葉にたまにコメントする程度でそれ以上の交流はない。其れ程仲の良い関係ではない。其れが何故住所を――?当然訊く権利のある事柄だが、店内は冷房が効いていて寒いくらいなのに、まるで「御覧あれ」と見せるように裾を捲る腕の、肩辺りまで延々と続く自傷行為の痕に臆する。
下手な質問は出来ない。策士か。同情を惹きたいのか。見えている分逆に自傷行為に対して触れも出来ず、しかも初対面、触れたくも無い。こんな状況なら尚のこと。
当たり障りのない会話を続ける。困惑と畏れと時間が経つ程に募る憤りの感情。せっかくの友人との久しぶりの会合も無かった事になるような、数時間前の出来事なのにもう何日も前の出来事だったような、楽しい夢を一瞬で忘れてその名残だけが凝っているような喪失感。

彼女はそんな彼の感情などつゆ知らず、意に介さず、嬉々として語る。自分の事、SNSの事、勝手に思い描いている彼女の中での彼の事。彼女が熱くなる程に醒める。如何でも善くなる。

どのくらいの時間が経ったものだろうか。平日の深夜、店内は彼と彼女だけ。店員の目も心無しか冷たい。何よりも況して眠い。辛い。

体調も悪いから、今日はこの辺にしておこうと渋る彼女をタクシーに乗せ、「いきなり来られるのはやっぱり困るから、せめて事前に連絡を」と穏和に諭し、見送った。酷く疲れた。

エレベーターで六階に上がる。静かな匣の中で目をつむる。耳に這入るのはうぉんうぉんと云う振動だけ。状況は同じなのに先ほどとは違う。早く家に帰りたい、寝馴れたベットに躯を預け、何も考えずに眠りたい。明日に成ったら親しいSNSの友人たちに相談しよう。取り敢えずMか、彼奴が怪しい。莫迦だもんな。

そんな事を思い乍ら鍵を開ける。電気を点け、見馴れた部屋の真ん中に一人。一度匣の扉が開いてからの二時間ばかりを振り返る。あれこそが夢のようだ。なんなんだあの女。絶対おかしい。狂ってるとしか思えない。どうして家を。何故判った。そうだ、鍵を。鍵をしっかりかけなければ。普段はかけぬチェーンも今日はかけよう。
そう思い、振り向いた。その刹那――


ピンポーン――


まさか。
躯が固まる。
そんな筈は無い、確かにタクシーに乗せた、行き先も自分が告げた。
そんな、莫迦な、ことが。

ゆっくりと玄関に近付く。
自分でも気付かぬうちに忍び足に成る。自分の家なのに。
それが可笑しくて少し笑った。また現実逃避。今日は逃避ばかりしている。
玄関に辿り着く。ドアに身を寄せる。気配はない。覗き窓。
一瞬躊躇する。視たく無いものが見える気がする。
でも見なければ、此処で確認しなければ、気になって眠れないのは火を見るよりも明らかで。友人かも知れない。Mかも知れない。あいつは莫迦で非常識だから、深夜の訪問だってあり得ないこともない。そうだ、事のついでに問い質そう。全部話して笑い話にしてしまおう。誰かに話せば恐ろしかった現実も、虚構の作り話に思えるはず。無理矢理、本当に無理矢理自分のそうあって欲しい方向に思考を折り曲げる。――あぁ、また、逃避だ。

覗き窓に向き合う。矢張り気配はない。コトリとも音はしない。
そっとドアに頭をつけるようにして。
矢張り一瞬躊躇して。頭を振って思い切り。
片目を瞑り、窓を覗くと――

――彼女が。


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この事件から四箇月、未だ彼は彼女をフォロワーから外せず、そして尚且つ昼夜を問わない彼女の訪問を度々受けているそうです。流石に家には上げないし、居留守も都度使うそうですが。止まないらしく、

「最近ストーカーにあっていて、迷惑だし恐い」

と意を決してSNSにて呟いたら、その彼女から、コメント。


――ストーカー、だいじょうぶですか…?



こわーい。