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おとうさんの娘になれて幸せです(お墓参りはしないけど)

末期がん、余命3ヶ月

義父が末期がんで余命3ヶ月と告知されたのは、2011年1月だった。
年末年始にかけて「首が痛い、腰が痛い」とのことで我が家の愛犬(どんちゃん)の散歩を頼めなくなっていたから心配していた。整形外科でレントゲンを撮ったら「影がある」と言われあれよあれよと言う間に余命3ヶ月宣告。ホスピスを勧められたが、家が大好きな義父の様子や「自宅で看取りたい」との義母の希望もあり家族みんなで自宅での緩和ケアを決意した。民間療法を試したりしながら、宣告された3ヶ月が経ちゴールデンウイークも超えることができた。


嵐の前の静けさ

2011年6月4日
あんまり痛がらないし食事も摂れるようになってきた。もしかして、民間療法が効いてる?ちょっとずつ悪玉もやっつけつつあるのでは?
期待しつつ麻酔科のドクターSに問うてみたが、これも終末医療のパターンのひとつだとあっさり期待をかき消された。
「お義父さんの場合は、苦しまずに、眠るように“そのとき”がくると思いますよ」
宣告された日は刻々と近づいている……。全然そんな風に見えないんだけど。
今日は点滴もリハビリもなし。
「ゆっくり寝よか」と、お義父さん。
お義母さんにも「お前もウトウトせぇよ」って。
「あれ、優しいこと言うてくれるやんか…」と思ってたら2分もたたん間に「オイ、足揉んでくれ」やでと笑っていた。
(我が家の愛犬)どんちゃんと同い年の11歳(当時)のアンディは黒ラブの女の子。最近お義父さんの近くでくつろぐことが多い。
彼女なりに心配しているのかな?


覚悟

2011年6月19日
オシッコが自力で出せなくなってお腹パンパン。管を入れて抜いてもらうことになった。夜、ティッシュ3箱使うほどの大量の嘔吐(血も吐いた)。それから口にモノを入れると嘔吐を繰り返す。
その嘔吐が……。胃の中が腐敗してるのか?黒緑の液体をゴボゴボと大量に吐く。痛みは感じないみたいだけど「しんどいなぁ」を連呼。
夜一人じゃ大変ではないかと支援を申し出てみるも、夜は夫婦水入らずで過ごしたいとのことで却下。毎晩、手を繋いで寝ているらしい。そこには夫婦だけの会話もあるんだろうね。
もう「覚悟しとかなアカン」らしい。


長男の嫁のプレッシャー

2011年6月22日
今日もオシッコを管で抜く。約1リットルほどお腹に溜まっていた。ふくれたお腹を看護師さんが押しながらペットボトルに出していく。毎日管の出し入れは大変やから、管を通しといた方が楽かも…とのこと。発熱37度4分。カラダは最後の力を振り絞って闘っているんだね。「暑い暑い」しきりに氷を口に放り込めと言う。唯一、口に入れられるもの。一時期好んで口に入れていた「アイスの実」はもう甘すぎて気持ち悪いんだって。

今日、痰の吸引器がきた。カテーテルを口に入れると嗚咽が。「しんどいなぁ、しんどいなぁ」の繰り返し。かける言葉が見当たらない。
昨日からチョイチョイ家族会議。もしものときの行動スケジュールの確認など…。「長男の嫁」のプレッシャーをガンガンかけられる。これだから親戚づきあいは嫌だ。死に対してもっとゆっくり向き合えないものか。「覚悟を決める」の意味がわからん。
もしものときの「連絡をする順番」「誰其れの顔を立てる」「長男の嫁のあるべき姿」etc
アタシは“梨園”にでも嫁いだのか?
お義父さんの鼻に酸素濃縮装置の管が入れられ、オシッコの管も入れておくことになり、痰の吸引器もある。お部屋が病室みたいになってきた。


天国と地獄

2011年7月4日
6月27日午後9時、お義父さんの容態が悪化。訪問看護ステーションの方に聞くと「最期が近づいてますね」とのこと。
家族全員が集まり見守る中、何度も呼吸が止まる。痰が詰まって窒息状態になってしまうのだ。そのたび、カラダを横に向けて背中をトントン叩いてどうにか痰を出して息ができるように、時には口に手を突っ込んで舌が気道を塞ぐのを阻止したり。
段々、その発作の数が増え、間隔も狭くなっていき、夜を徹しての看病が続く。
お義母さん、長男、次男、三男、長男の嫁(アタシ)、次男の嫁、孫息子(甥っ子)、孫娘(姪っ子)の8人で交代で眠りながらの看病。チアノーゼなど何回も危ないシーンが。
そのたび「お別れ」を覚悟した会話を交わす。
「おとうさん!!!」
「じいちゃん!!!」
叫ぶことが何度もあった。が、お義父さん強い!!!何回も還ってきてくれる。
そして、還ってくるたびに「はぁ〜、しんどかった、死ぬかと思た」「ところで、生きてるんか?」などの名言。

お義父さんの兄弟も集合したりと、かなりヤバイ状況だったが、金曜日の朝、急に「クリームパン食べる」と言い出した。
一同、「え???」
前日、看護師さんが来たとき最大の危ないシーンがあって点滴もせずに帰ってもらっていたし、絶食状態だったし、何より昨日まで4日4晩、死の淵をさ迷っていたっていうのに……

クリームパンですかっ!?
クリームパン食べて一言。
「ウマイッ!!」
冷た〜いお茶飲んでも……
「あ〜、ウマイッ!!」
大きな声で叫ぶ(笑)

それからは、プリン食べたり胡麻豆腐食べたり出来ている。
持ち直した。お義父さん、スゴいな。スゴいな、人間って。
翌日、訪問看護師さんが目を丸くして驚いたのは言うまでもない。


甥っ子のプレッシャー

2011年7月6日
中3の甥っ子は、K中学校バスケ部のキャプテン。
じいちゃん(お義父さん)は、甥っ子が大好きでバスケの試合の応援も病気になるまでは毎回行っていた。思えば3人息子の誰も『体育会系』じゃないのだ。家で『体育会系』といえば、お義父さんと甥っ子と私だけ。(ちなみに、お義父さんは我が母校でもある高校の野球部でショートやセカンドを守っていたのだ)そんなわけで甥っ子がスポーツ頑張っているのが嬉しくてしょうがないようだ。先週の『天国と地獄の1週間』の間にも、今月中旬に始まる中体連の試合の組合せの心配をしていたぐらい。
甥っ子にとっては中学最後の大会。万年“3位”を返上したいという気持ちも強かったのだろう。(わかる。アタシも中学のとき、万年“3位”、しかも3位決定戦なしの3位だったから)
お義父さんが生死をさ迷っているとき、家族に「Y(甥っ子)優勝するわな!!」とけしかけられ、思わず……「じいちゃん!絶対優勝するから!!」と泣きながら宣言してしまった甥っ子。もらい泣きする家族一同。
復活後、じいちゃんに「ホンマかいな」と言われ、甥っ子のプレッシャーや如何に。
頑張れ甥っ子!!


ネタがない姪っ子

2011年7月6日
小6の姪っ子は、ばあちゃん(義母)を助けて、じいちゃん(義父)の世話もすすんでやっている。超マイペースで天然で、いわゆる“いじられキャラ”。甥っ子みたいに何かに打ち込んでいるわけではなく、割と“のほほ〜ん”としている。じいちゃんに怒られることも日常茶飯事。
「H(姪っ子)!ウルサイ!あっち行け」みたいな。
でもね……ホンマ、じいちゃんの世話を甲斐甲斐しくする子なのだ。入れ歯洗ったり、脚揉んであげたり、アイス食べさせてあげたり…。
先週の『天国と地獄の1週間』のこと。お義父さんの兄弟が集まり見守るなか「Y、バスケ頑張れよ」とか甥っ子の話で一同しんみりしたあと……お義母さんが姪っ子を呼び「おとうさん、Hもいてるで」と言い「じいちゃん」と姪っ子が呼びかけると……
「H〜、ネタがない〜」と、じいちゃん。一同、シーン。
こんなに世話してもらってるくせに。ホンマに、もう。
ま、言われた本人(姪っ子)は、さほど気にしてない様子だったけど。


迷言

2011年7月6日
寝返りができないお義父さんはオムツ交換やシーツ交換、着替えなどでカラダを動かすことを嫌がる。痛くて可哀想なんだけど、体勢変えないといけないときってあるんよね。
そんなとき、なるべく痛くないように工夫するべく話し合う我々。あーでもない、こーでもないって。それを聞いていて不安になるのかカラダを動かしにかかると
「うわぁぁぁぁ~~~」
「は~じ~~ま~~~ったぁ~~~~」

と叫ぶお義父さん。
その言い方が可笑しくて可笑しくて。ついつい笑ってしまう。
「笑い事ちやうっっっ!」
叫ぶお義父さん(あえて、“や”大文字です)
確かに笑い事ちゃうんやけど、その言い方も笑える。笑いのツボを刺激された次男は別室へ避難し、ひとりで笑っていた。一言一言がめっちゃオモロイ。さっきまで泣いてたみんながもう笑っている。

父、永眠

2011年7月12日
義父、7月12日(火)11時43分に永眠。
最期は安らかに眠るように息を引き取った。
お義父さんが息を引き取る前日に奇妙な雲を見たのも、なにか虫の知らせのようなものだったのかな、なんて。

その月曜日の夜、高熱でうなされるようになり、呼吸も浅く、荒くなっていた。
そんな中でも「おーい、おーい、…えっ!?」
自分のうわ言に返事したりして笑いをとるお義父さん。

火曜日の早朝、呼吸が段々弱くなってきたのがわかる。朝から嘔吐、軟便あり。
しかし前回の『天国と地獄の1週間』があったため、アタシたちの気持ちも穏やか。
いつものように孫娘(ネタがない姪っ子)にお茶を飲ませてもらった、お義父さん(これが最後に口に入れたものとなった)。孫たちを学校へ送り出し、長男(夫)も仕事に出かける。
残ったのは、三男(義弟)・お義母さん・アタシの3人。呼吸は弱いものの穏やかな状態が続いていた。
朝からいいお天気だったのに、10時前から急に真っ暗になってかなり強く雨が降りだした。今で言うゲリラ豪雨みたいな。カラダやアタマは高熱ですごく熱いのに、手の先が冷たくなってきた。チアノーゼも。三男は前日も徹夜の看病だったので仮眠をとりに。お義母さんは、洗濯しに。
お義父さんと2人きりになったアタシ。初めて「おとうさん、ありがとう」と声に出して言った。もう言葉では返事することが難しくなっているお義父さんの右目から涙が溢れ出した。お義父さん聞こえてるんかな。じっと顔を眺める。お義父さんの呼吸が止まった。あかん!アタシだけで看取るのは忍びない!
「おとうさん!おとうさん!」咄嗟に叫んでしまった。
その声に、お義母さんと三男が集まり、息を吹き返す、お義父さん。
「おとうさん、もう十分頑張ってくれたし、静かに逝かしちゃろ。誰が最期を看取っても悔いはないしな」決意を固めた。

アタシが嫁入りしたときに、お義父さんは「念願の娘ができた」と喜んでいたそうだ。
(三男が生まれるときには女の子の名前を考えていたくらい、娘が欲しかったみたい)
そして娘に喫茶店をやらせるのが夢だったと聞かされ心臓が締め付けられた。
そういえば結婚してすぐ、お義父さんに服(セーターとスカートとブーツ)買ってもらったな。そんな想い出話をしていると、お義母さんが「お昼なにする?」と言い出し、“日清焼きそば”することに。アタシは、なぜかそのとき「家にチョロッと帰って昨日の残りのカレー食べてくるわ」と席を外した。(隣の)自分の家で昨日のカレーをレンジでチンしてテーブルに置いたとき電話が鳴った。「〇〇ちゃん、ごめん。オトハン…」三男の声。
カレーはそのままに慌てて戻ると、お義父さんは笑っているかのような安らかな顔だった。
「ホンマに?」
さっきまで熱を帯びていたカラダはまだ熱かったし、顔色も良かった。最期の最後、そばにいなかったことを悔やんだ。お義父さんはアタシに最後を見せたくなかったか、あるいは「見せないであげよう」という優しさだったのか、はたまたもう逝きたいのにアタシがいたらまた呼び戻されると思ったのか?
手がつけられてないままの、焼き上がった“日清焼きそば”から湯気が上がっていた。

長男の嫁、走る!キレる!

2011年7月12日
お義母さんは、お義父さんのそばから離れられない。三男とアタシで連絡すべきところへ電話する。『訪問看護ステーション』『かかりつけのドクター』『本家』そして『葬儀屋』へ。
20分ほどでドクターY到着。検死をしてもらい『死亡診断書』を書いてもらう。ドクターが検死をした時刻が死亡時刻となる。(これ、しっかり確認しないといけない。まさかドクターが間違えると思ってなかったんで、ちゃんと見てなくて。あとで訂正してもらいに行くはめに)

長男(夫)・次男(義弟)・孫(甥っ子・姪っ子)の学校にも電話を入れる。ほどなく、孫息子(甥っ子)が帰ってきて泣き崩れる。孫娘(姪っ子)も同じく。
アタシは、やるべきことに必死でこの時点では“うるっ”とはきても泣き崩れることはなかった。

訪問看護師さんが到着。お義父さんのカラダをキレイにして浴衣を着せてくれる。その前に「顔を見ますか?」と言われ、やっとお義父さんの近くに行ったら、もう涙が溢れて止まらなくなって。しばらく泣き崩れてしまった。落ち着いたあとは看護師さんにお任せ。アタシには続々とやることが押し寄せる。

まず『見舞配分』の用意。(見舞配分って言葉、今回初めて知った)大型スーパーのサービスコーナーで洗剤の詰め合わせを10個!カートに乗せてヨタヨタと運ぶ。
「ひとりで持てるわけないやん!」車の運転しながら、大声で泣きわめいた。
そして、ご近所に『見舞配分』を配り挨拶に行く。(看病の甲斐なく亡くなりました、という報告)
隣保班の班長さんに、通夜と葬儀の報告をし、放送してもらう段取り。自治会長さんに、トメ焼香のお願いをしに行く。お参りに来てくれる人にお茶を出す→洗う、の繰り返し。親戚の分の夕食の買い出し。

夜、9時頃から葬儀屋さんと打ち合わせ。これがかなりくたびれた。疲れすぎてイライラもした。お義母さんは「この子らに任せてるから」の一点張りで丸投げ。(出た!姑、伝家の宝刀!)そのわりに口出しする。(あたりまえなんやけどね)
本家のおばちゃんも知らんことをアタシらが知ってるわけないっしょ。
みんなは、お義父さんを看取った達成感でヘンにテンション高くなってくる。
こっちは、お義父さんのカラダに近づくこともままならず。
アタシ、キレた。「やることやってしまおうよ!」ってな感じで。はしゃぐ孫娘(姪っ子)に八つ当たり。「ウルサイ!あっち行け!イライラする!」(キレ方がお義父さんと一緒やん)「筆ペンは?💢」とかキレたテンションで、お義母さんに命令する長男の嫁(アタシ)
お寺さんのお布施…筆ペンを持つ手が震えそうになるのを抑えながら書いてたら「〇〇ちゃん、やっぱ上手いなぁ」(そんなん、ええねん)
その日は(とは言え夜中2時頃だったが)アタシだけ自分の家で、どんちゃん(愛犬)と寝た。「落ち着け!アタシ」と言い聞かせるが、しばらく興奮して珍しく眠れなかった。


おとうさん、カッコいい


2011年7月13日
翌朝、マジマジとお義父さんの顔を見ながら思う。
「おとうさん、男前やな」
棺に入れてあげるものを用意しなければ。実際は、あとから“あれも、これも”と出てきたが、アタシは“向陽高校”(義父とアタシの母校』の選抜甲子園出場の時の帽子と必勝ウチワを。そして、どんちゃん(愛犬)の写真も。
14時半、葬儀屋がお義父さんを迎えに来た。寝台車に乗せられて大好きだった“家”をあとにするお義父さん。どんちゃん(愛犬)と一緒にお見送り。どんちゃんの散歩、お義父さんが元気なときはずっと行ってくれてたから。

一足先に斎場に到着したお義父さんの姿を見ると、惚れ惚れするぐらいカッコイイ。176cmのカラダに藍色の浴衣を纏い、黒の帯を腰骨辺りで締めて。病床につくまでは、お腹だけかなり出てメタボだったのが、お腹もペタンコになり、筋肉は落ちたものの、往年のスポーツマンを彷彿させる風貌で。闘病のあとがみえないぐらい。亡くなる前の1週間は、よく食べていたので頬も痩せこけてはいなかった。

これから、『末期の儀』が行われる。お風呂が大好きだったお義父さん。
頭も身体もキレイに洗ってもらい、顔も綺麗にしてもらい(そのままでも十分綺麗だったけどね)、そして納棺。棺の蓋が閉められ小窓から覗くと、途端にお義父さんがメチャクチャ遠く感じた。

バタバタと時は過ぎ、お通夜が始まる。司会の人が「故、○○○○○○○」と発した瞬間から、涙が止めどなく溢れ出て止まらなくなった。夜通し、お義父さんの名言&迷言で大笑いしながら過ごした。聞かされていたほど、親戚も口うるさくなかったので一安心だ。


いいお葬式


2011年7月14日

一夜明け、告別式。お義父さんの人柄と共に、頑張った家族を讃えてお参りしてもらえたようで。本当に有り難い。お義母さんに代わって喪主を務めた夫は、考えていたよりも伝えたいことが溢れ出したようで涙で声を詰まらせながらの挨拶だった。アタシは、その辺りから頭真っ白になるくらい泣きまくってしまって。膝ガクガク。どうやら家族全員泣きまくっていたようだ。

出棺してマイクロバスで和歌山市の斎場へ。アタシ、ここ初めて来たのでビックリした。あまりの機械的な感じに愕然。リフトのようなものに乗せられたお義父さんの棺は機械的にレールの上を滑り火葬の部屋へと入っていってしまった。ガラス越しに、その扉が閉まり夫が火葬のスイッチを押すのを泣きながら見つめていた。スイッチを押した瞬間、崩れ落ちそうになるお義母さんのカラダをガシッとつかみ、マイクロバスへと戻った。帰りのバスで私は用意していた「お義母さん、お疲れさん」の言葉を贈った。泣き続けるお義母さんに「今日は泣いても許される日やから気ぃ済むまで泣いていいよ」と声をかけたが、それ以上は何も言えなかった。思いっきり泣いてスッキリしたのか、お義母さん、その後めっちゃ食べて騒いでいた(どやさっ)

初めての経験で“いっぱいいっぱい”だったけど、親戚や参列者の方に
「あったかい、いいお葬式やったよ」
「家族のチームワーク見せてもらって気持ちよかったよ」
「お嫁さんや孫があんだけ泣くお葬式も珍しいで。○○ちゃん(お義父さん)幸せモンやな」などと口々に言ってもらえた。「いいお葬式」ってなんなんやろう?ようわからんけど。


おとうさんの娘になれてしあわせです

2011年7月19日

お義父さんの遺品の整理をしていたら、アタシの写真が出てきた。
結婚前、関西サイクルスポーツセンターに
夫と遊びに行ったときの写真。いわゆる、デートの写真。23とか24歳ぐらいのアタシの写真。お義父さんが生前、仕事に行くときや出かけるときには必ず持っていたというセカンドバッグのなかから出てきた。
どうやって、お義父さんがこの写真を手に入れたのかは不明。アタシも夫も渡した記憶ないし。持ち歩いてくれてたんやなぁ、アタシの写真。ホンマに娘と思ってくれてたんやなぁ。
仕事場で見せたりとかしてたんかなぁ。もっともっと、お義父さんに甘えればよかったな。喫茶店の話も聞きたかったな。
(実の父親がいない)アタシが嫁いできたとき「(自分を”オトハンと思たらええんやっ!!(ホントの)オトハンいてないからって、なんも気にすることない!」なかば怒りぎみに吐き捨てるように言われたことを思い出した。
不器用なお義父さんの最高の優しさが今さらながらすごく感じられる。
「おとうさんの娘になれて幸せです」
お義父さんの棺に入れる寄せ書きにそう書いたのは、みんなには内緒。


お墓参りはしないけど


2024年7月
お義父さんを看取った6年後、アタシは家を出た。その後、2度目の結婚。赤の他人となったため、もうお義父さんのお墓参りをすることはない。
「赤ちゃんができない騒動」がキッカケで、舅や姑とは隣に住むのに顔も見なければ口もきかない日々が続いていた。そんなある日、舅の末期がん(余命3ヶ月)を知らされた。否が応でも関わらざるを得なくなってしまった緩和ケア、そして看取り。

お葬式で、なんでアタシはあんなに泣いたのか。
高校時代(バレーボールの)最後の大会に(家族のことで色々あって練習に参加できなくなり)スタメンで出場できず、現役生活が終わった日の涙と似ている気する。そこになんらかの感情はあるんだろうけど、うまい言葉が見つからない。そういうことを突き止めたくて、アタシは自分の人生を綴っているのだと思う。

おとうさん、そちらの世界はどんなかな?
(愛犬)どんちゃん、アンディには会えた?
〇〇くん(長男=元夫)もそっちに逝ったって聞いたよ。きっと同じお墓に入ったんよね。

おとうさんのこと、一生忘れないよ。
お墓参りはしないけどね。

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