「ぺんきゅう」と言った勇者

ぺんきゅう!!
小学校高学年の背の高い彼は、笑顔で元気にそう言いはなった。Thank youと言ったのだった。
もう15年ほど前の話だ。当時私は、地方の、ある英会話教室の担当をしていた。
その彼は、親の転勤で引っ越してきて、まだ右も左もわからないまま、私の教室へやってきた。見知らぬ土地で、初めての英会話クラス。最初はがちがちに緊張し、声も蚊の鳴くようだったが、彼はまっすぐで、物怖じしないひとだった。

「ぺんきゅう」か。
とっさに、直してあげよう、と思った。周りの子たちに笑われて、自信をなくしちゃもったいない。だけどすぐさま考え直した。ぺんきゅう、多分、なかなか悪くない。だから、それを言えたことを褒め、いい耳していることを褒め、クラスの他の子たちが彼をいたずらに批判できない空気をつくった。

日本にいると「thank you」は、もう、自動的に「サンキュー」に変換される。だけど、本当はみんな知っている。いかに「サンキュー」がthank youではないか。

そもそも「ぺんきゅう」は本当にそんなにまずいのか。
「th」の音は、日本語にないからもとより相当難しい。それは実は日本人だけがコンプレックスに思うべき問題でもない。「th」音が、「t」音や「d」音になる人たちは、世界中にたくさんいる。だから世の中には、「たんきゅう」なthank youや「でぃす」なthisや、「だっと」なthatが散在している。それに、ネイティブのロンドンっ子たちなんて、「th」が「f」音や「v」音になったりする。thingだって「フィング」になるし。「よう、兄弟」って言うときの「brother」だってなまって短くなってbrov(ブロヴ)になるし。だから教科書通りの「正しい」発音じゃないけれど、むしろ「正しい」発音じゃないからこその、生きた英語はわんさかあるのだ。

ちなみに、「f」音になるのは、「f」か「ph」。「ph」音は、フィリピン人の発音の傾向では、「p」音ぽくなったり、「p」音になったりする。そう考えると、アジアの片すみで英語を学ぶ彼の「th」音と「p」音がとても近いこと、入れ替わりが起きることは、わりと道理にかなっている。ぺんきゅう、あながち悪くないのだ。

それでも「ぺんきゅう」と口に出すには勇気がいる。そもそも音がかわいすぎる。その音の組み合わせを、大真面目に口から出すなんて、気恥ずかしくなるのが大人の常識。そこは、大人の階段登りはじめた小学校高学年だって同じはず。

だけど彼は、thank youという短いフレーズを、ただそのまま耳から聞いて、なんの偏見も持たないで、素直に再現しようとした。聞こえたままの、音の連なりを口から出したら「ぺんきゅう」になった。そこには、日本語の発音セットを飛び出した、聞こえたとおりの英語の音のエッセンスがあった。だから彼の「ぺんきゅう」は、生き生きとした英語に聞こえた。たぶんネイティブの人がそれを聞いたら、するりとthank youに変換される、そんな音のかたまりだった。それを日本語の耳で聞いたら「ぺんきゅう」になる。ただそれだけのことだった。

大事なことは、彼がそれを言ったこと。その一言で、彼は住み慣れた日本語世界から一歩飛び出し、新しい音の世界に踏み出した。それは勇者のすることだ。
だから私は、勇者な彼を讃えて守った。勇者な彼と、守護神な私。するりと仲良くなることができた。そして、彼のぺんきゅうは、あっという間にthank youになった。


私たちには、常識がある。常識は、私たちに、何をして、誰にどう、いつ話したらいいか、妥当か、無難かを、教えてくれる。常識は私たちを守ってくれる。
だけど、新しい言葉を学ぶ時、聞いたことない音を扱う時、常識はときにジャマになる。変な音は出すものじゃないし、変なことは言うものじゃない。突拍子もない間違いをしたら、恥ずかしくってたまらない。

だけど、新しい言語に出会う時、常識というヨロイを置いて、あえて素肌で、素の耳で、初めて聞く音に触れてみる。知らない音に触れてみて、正しく出せるか分からない音を、聞こえているかも分からない音を、すべて受け止め、ただ真似をする。心配だけど、不安だけど、それを口から出してみる。それができたら、あなたは勇者だ。そして勇者は、生きた言語のエッセンスを、レベルアップしたヨロイと武器を、きっと手に入れるだろう。

そしたら、私は守護しにいきたい。

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