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病気は個性か?


今日代官山の蔦屋スタバにいた。フリーランス時代にこの近くで仕事が多く、懐かしい気持ちになりながらフラフラしていた。
フラッと本屋さんに行って、その時に手に取る本から学びを得たり気づきを得たり。そんな時間がとても私には大切なのだ。アールグレイティーラテオールミルク、甘いロイヤルミルクティーが飲みたくなるこの季節、おすすめです( ^ω^ )(なんの話?)

蔦屋の広い本屋さんのなかで足を止めたのは心の問題コーナー
2年前とは考えられないくらいの規模になっていた。
ADHDの本、多動症とどう向き合うか、自閉症の子の育て方。。。

確かに最近電車の中吊り広告などでよく見るから売れているのであろう。この手の本。
ただ私違うと思うんです。
その、、名前をつけて安心することに意味はないなと思うのです。

今日は、最近流行りの病気について書きたい。

なんで心の気質や病気を診断することが流行っているのか

ADHD、適応障害、鬱、、たくさんの心に関する言葉が並ぶ。
なんで流行っているのかなと考えてみたら単純に売れるからだろう。
売れると言うことは世間一般的に興味関心がある内容なのだろう。

本屋さんに売っている本というのは一般向けなのである。
(私はある国家資格を持っているので良くわかるが、専門書は全然本屋にない。笑
死ぬほどある部分を誇張したなんなら嘘やでっち上げの本も多い。
一般の人向けの本はあくまで売れる本=嗜好品だということを理解しよう。。。。1日5つまでなら卵食べて良いとか牛乳は体に悪いとか、もうそういう論争やめよ?みんな過激な主張をしたらそんなの見ちゃうと思うけど、テレビで特集やめてくれ?)

そもそも本当に精神疾患で悩んでいる人や辛い人はおそらく本屋にまで出向けない。
病院へ周りの人間がぶち込む他ない。要は手に取っているのはあくまでまだ病気ではない健常者と思った方が良い。

最近ではなんとなくの言葉で私HSPっぽいんだよね〜、ADHD絶対入っててさ〜と言った会話さえある。そのくらいカジュアルになってきた。

おそらく自分のことに対して興味を持っているという証拠だろう。

好きなことで生きていきたい(憧れかつ願望)

自分の内面について興味を持つ理由は
昨今の「好きなことで生きていく」と言う風潮だろう。

これまで通り、良い大学を卒業して大手の会社に入って〜〜と言うレールが外された。

急に外されたのではなく、コロナのせいで急に気付かされたのだ。
だいぶ前からレールは外されてた。しかし残念ながら誰も気付こうとしなかった。
なぜなら大手企業に属していたから。これだけ多くの方が解雇され、大手企業に属さなくなった今、やっとレールがないということに気づく。自分ごとになって初めて気づくことの最たる例だろう。

YouTuberが言う「好きなことは」とは多分世間が思っている以上に厳しい道だ。
しかしながら毎日コツコツとカメラに向かって話すことを楽しいと思える気質と編集を頑張ると言う2つの力を発揮して成功した彼らの生き方や、輝いているフリーランスの人たちを見て、こんな働き方もあったのか!と影響を受けた人も多いはず。

私も就活の時に1日8時間も拘束されるなんて、どうかしてると思った。
受験期に勉強したのは1日12時間、12時間あれば国立大学2校分(13科目分)の対策が可能だ。しかも2年間で可能だった。
社会人が毎日12時間×20年間やってたらそもそもとんでもない人が出来上がっているはずなのにそんなことは大人から感じられなかった。

今は普通であるだけでは生きていけない。
そんな思いから自分のことに目を向ける人たちが多くなった。とても良い風潮だ。

ただ何者でもない自分は嫌

話を戻すと、例えばADHDは20人に1人、HSPは10人に1人。
「日本人」と言う括りよりだいぶ対象の人数が少なくなる。
日本人の人口が1億3000万であるのに対して1300万、2600万まで人数が減少する。

おそらくこの「ただの日本人じゃない特別な人」と言うのが安心感があるのだろう。

ずっと不調だった原因が病院で診断されて、治療薬が見つかってよかったという安心感とはまた別だと思う。

何者でもない人たちがこの世のなかではほとんどだ。
別に良いことでも悪いことでもない。なんなら日本においては何者でもないが基準の揃った人たちが大勢いるおかげで、治安が良く、街の平和が保たれているとさえ思っている。

別に何者でなくても良い。ただ特別な人たちが成功していく様子を間近で見られる現代では受け入れ難い。自分も特別な存在であるはず。もっとできるはず。だからみんな特別であろうとする。

会社で課長になりました。家庭でお母さんになりました。
肩書きがつくと、自分がある役割やある特性を担う「特別」になる得るのだ。

心の肩書き、それが気質や心の問題となってある意味欲されているのだろう。

名前をつけた瞬間に個性は死ぬ

小学生の時の話だ。文字がうまく書けず、清書は時間をかけてその子をクラス全員待つのが普通だった。大縄跳びには背中を押してあげないと入れず、、、その子の後ろにいる人が押してあげるという同級生がいた。全員がそれをわかっていた。(今の時代では特別支援学級に入るような子だった。)
中にはからかっている子もいたが、その時あいつ病気だからという表現もしていなかったし、そもそも病気だなんて思っていなかったと思う。
「そういう子」なだけ、あくまで個性。そう、あくまで全員の認識はその子の個性だった。
そこでもし誰かが発達障害として扱ったらどうだっただろう。そもそもクラスが違ったかもしれない。

障害も個性の一つ、と言われることも多いが私はそうは思わない。
障害は病気だ。病気は病名がついて、対処療法をする。
病気に対してのアプローチをする。
こういう性質があって、こういうことが得意だからやっていきましょう、と。

個性は違う。個性はいろんな性格に強弱があって、言葉にできないことが多いものだ。この世に全く同じ人なんて存在しない。個性は他人と関わる中で初めて理解できる部分であり、個人に対してアプローチをする。それを治すのか、それともそれを伸ばしていくのか。複雑に絡み合った部分と向き合う、ある意味果てしない工程だ。

障害を軽視しているわけではない。一般社会においてのルールが厳格な国である分、むしろ個性なんていう言葉で済ませられない、生きづらさがあると思う。それは障害を抱えている人だけではなく、その人を支える周りの人も。

だからこそ、この「私〇〇だから」というところに気軽に
HSPだからADHDだから、という言葉を当てはめるのはちょっと違うと思う。
自嘲しているニュアンスで使うことが多いから
厨二病の「俺勉強していない!」っていうのと同義なんだろうな。

周りへのパフォーマンスなら良い。
ただ自分のことを本気で分かりたいと思っているならヒントくらいにしておかないといけない。自分の個性に名前をつけて、それで自己理解が進んだと感じて、頭ごなしに納得してはならない。それはあくまで思い込みだから。

名前をつけられたものを当てはめるだけで特別になれる気がするだけで、
本当の意味での特別にはなれない。
なぜならその性質の強弱や対処方法は、その人によって全く異なるものになるから。

ある意味、分かりやすいレールなのかもしれない。
気質に対してはこうアプローチしていきましょう。そんな簡単なことがあるか。

HSP  向いてる職業
これはHSPの予測検索機能で出てきたものだ。

そもそも皆、特別な存在ではない。
なんでもできるよ!と思い込む自己肯定ではなく、
そのままの自分を受け止める自己受容できる強さを身につけるべきではないか?


肯定的な諦め。私の最近1番好きな言葉。

ちょっとでもクスっとできたなら何よりです。 頑張れと私を想ってくださった優しい貴方、サポートしていただけると泣いて喜びます。会社では1人です。