見出し画像

ギターを弾くのか目を惹くのか?足して引くと見えるもの。

前職にいた頃、当時の上司と出張をする機会があった。
それは打ち合わせなどの類ではなく、1年に1回ある業界内の成果報告会のようなものだった。
例えば、自動車業界だとしたら、今年度の売り上げ、来年度の展望や新製品・技術の報告があるように、自分の関連する小さな業界でも同じようなことがあったのだ。

僕自身は先輩の代わりで時間的な都合がついたので急遽呼ばれ、共に出席することとなった。
特に期待はなく、出張が気分転換になるかなと思いながら参加した。
会場はとある都心のホールのような場所で、思っていたよりもかなり豪華だった。
それもそのはずで、業界内の役員クラスが参加する、年に1度それぞれのメーカーが顔合わせする場所でもあったからだ。
僕といえば、身分不相応であったが、仲よくしてもらっている年上の営業部の先輩が来ていたため、リラックスすることができた。
その報告会の後は懇親会に移り、簡単だが豪勢な軽食とお酒が振る舞われた。

その頃、ずっと自分の仕事についてやこの会社に所属することについて悩んでおり、この出張もあまり楽しめないだろうなという予感があった。
しかし結果は正反対で、非常に楽しく、久々にやる気を持って接するすることができた。
その会場にいたのは殆どがお得意先のお客さんで、しかもまず会わないようなトップの偉い方々ばかりであった。
彼らは僕のような下っ端にも、激励や為になる話をしてくれた。
それは本当に嬉しかったし、久しぶりに自分の仕事に対して誇らしい気持ちになれた。

そんな気になった理由がなぜだかその時はわからなかったのだけれど、今はぼんやりこう思える。
僕は仕事の内容よりも、自分の待遇や肩書きが好きだったのだ、と思う。
あの会場で偉い方たちと話をする事で、自分も偉くなったような気がしたし、選ばれし者のような特別感を抱いていた。
それが僕にとって快感だったのだと思う。

社内の研究・開発系の先輩に多く見られるのだが、彼らは目立たずともひた向きにコツコツと実験を繰り返し、研究しているタイプが居た。
しかも土日も自宅で、自主的にコツコツと勉強をしているのだ。
(マジで好きでやっていることらしい)
でも、どうしても僕はそこまでのめり込むことができなかった。
当時業務でデータ取りなど研究っぽいことをしていたのだが、それを黙々と続けることができない理由がぼんやり分かった瞬間だった。
僕は結局、研究自体が好きなのではなく、研究者という立場の自分が好きだったのだ。

話は前後するが以前、とある勉強会に参加したことがある。
そこでの話題の一つで、やりたい事を見つけるためという講義の中で、こういう比喩的な話があった。

ギターを始める人は、
①ギターを弾く事が好きなのか
②ギターを弾いてる自分が注目を浴びる事が好きなのか
をはっきりさせないと方向性を間違える。

これは、①が良くて②が悪いという話ではない。
①ならギターを修練すればいいし、それだけの情熱があるからギターにのめり込むことができる。
一方②であれば、人の注目を浴びることに喜びを見出しているので、ギターに熱中できない可能性が高いという話だ。
そういう②は、注目を浴びるという欲望にフォーカスすれば、ギターじゃなくても好きな事の選択肢は様々あるだろう。
(もちろん、①かつ②である人も居るし、例外もあるとは思う)
でもギターを始める時は、特に若い時は、不思議と大半が自分は①だと思ってしまう。
しかし何故かそこまでのめり込む事が出来ない、そんな事が続くとギターを諦めてしまうって話だった。

僕はその比喩を聞いた時に凄く納得していたし、当時どちらかというと仕事に対して①であるという自負が強かった。
僕はかつて理系の大学を卒業し、今は開発部門で仕事をすることに情熱を注いでいる、と思っていた。
それなのに何故か楽しめない、そんな迷いや葛藤を抱いていた。

でも今思えば、実際は全然違っていた。
僕は、研究者である自分の立場に魅力を感じていただけで、それをアイデンティティーにして、自信の拠り所にしていた。
研究が好きなのではなく、研究者という自分のステイタスが好きだっただけなのだ。
暫くしてこれが分かった瞬間に、これまでいつも100%本気で身の入らなかった理由が分かった気がした。

僕がこれまで学生から社会人までの数十年間頑張ってきたことや、費やした時間は、本当の自分が望んだことではなかった。
それらは単純に褒められ、認められたいという思いからくる行動の結果だった。
僕は学生時代、特に思春期の頃、解決できないコンプレックスを沢山持っていた。
それ故に、欲望や感情のまま自分を表現する事にいつもブレーキがかかり、思春期の大半を無駄にしたと感じていた。
部活で頑張る、バンドを組む、告白する、サークルではっちゃける、目立って注目を浴びる。
それらの大半は僕のコンプレックス故に、直接的に、シンプルに承認欲求や自己顕示欲を満たすことができなかった。
そんな自分でも何とか達成できそうな道が、地味な理系の学生になり、理系の仕事をして、研究・開発をする立場に就くことだったのだ。
そりゃ本腰も入らないよな、と思った。

また、講義ではこうも話していた。

①か②か、はじめから分かってる人は殆ど居ない。
だからまずは始めることが大事だ。
体験して経験して、その中で自分はどちらなのか?
それを、見極めることが大事だ。
そのためには、始める前から「できない」「無理だ」という心のブロックを外すことが何より重要だ。
①なのか②なのか見つけた後、そのどちらに進むにしても、「でも無理だ」「どうせ失敗する」という心の思い込みを外すことが何より大事だ。

僕は現状に疑問を持ちながらも、自分は何がやりたいのだろうとずっと模索してきた。
こころの中身を知るのが好きだとか、人と共感するのが好きだとか。
0から1を作るのは苦手だけど、システムの仕組みを作るのが好きだとか。
色んなことが分かってきた。
向いていない仕事を続ける事に疑問を持つとしても、そこに居ながら模索するのも大事だったと感じている。
急に辞めたり放棄せず、ある意味安定した中に片足を入れながら執拗に模索するのもいいじゃないだろうか。
それをモラトリアムと言われれば、そうかもしれない。
期限があるやり方だが、それも一つの生き方だと感じている。

そして期限内に、自分の興味を源泉を知り、更に先に進めること、恐怖を振り切って行動すること、自分から参加してみること。
そういった自分に「足す」部分を持つことが大事だったと今では思う。
それと同時に、邪魔な障害、不要な人やモノ、すぐ不安やコンプレックスに繋げる考え方を手放すこと。
そう言った自分から「引く」部分を持つ勇気が大事だったと今では思う。
今でも出来ているとは言えないが、僕は退職することで強引に多くを「引く」事ができたと感じている。
僕にとってのギターは、果たしてどちらなのか。
弾く事なのか、惹く事なのか、はたまた別のことなのか。
どちらにしても行動しないと分からない。
そして、行動がモノになるまでは、どちらにしても時間がかかるのを覚悟しなくちゃならないんだろう。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?