春の訪れを告げるため、コブシの花は開くのか。
最近、暖かさを感じることの多い季節が始まった。
そんなポジティブな季節に、春が近づくということに、僕は恐怖を強く感じている。
無職期間が長くなるほど、一つ季節を跨ぐということに恐怖を感じるものだと随分前に知った。
そして何もないままにまた一つ、僕の背中にはやり残した宿題が重なるのだった。
僕は日々、散歩をしている。
あまりにも引き篭もるのは、本能的に危険だと感じるからだ。
平日の昼間は人が少なく、居てもお年寄りか子供連れがほとんどだ。
僕のような無所属の人間は、どこにも見かけない。
何も理由が無いままの人間は、世界で僕だけに思える。
そんなゾンビのような僕であるが、太陽の光を浴びて歩きながら色々と考える。
今日もまた、春のような穏やかな暖かさが続いている。
そんな幸せを感じるような季節でさえ、今の僕には恐怖に感じてしまう。
迷いで頭が一杯になり、何にも余裕が持てない毎日を過ごしている。
そしてこれからの事を考えると、まだ見ぬ恐怖で体が慄(おのの)き、拳を握って身構えてしまうのだ。
僕がいつも散歩をする公園がある。
そこにはさまざまな木々が生えており、彼らは彼らのリズムで花を咲かせ、葉を散らせている。
そんな彼らを見るうちに、1年前に僕は春の手前に咲く花が好きになった。
何故かといえば、それらどれもが凛としていて、力強い佇まいを感じるからだ。
冷たい空気の中で咲く花の香りは強く漂い、張り詰めた雰囲気と鮮やかな花の対比が美しくて好きになった。
その中でも僕が好きなのは、辛夷(こぶし)の花だ。
英語で「マグノリア」と呼ばれる辛夷の花は、モクレン科の落葉樹の一種らしい。
冬の間は葉の落ちた細長い枝をいくつも伸ばし、寡黙にじっと寒さを耐えているように見える。
そして春の到来の少し前に、白く大きな花がぐんと一斉に咲く。
その甘く華やかな匂いを嗅ぐと、今の僕ですら心を強く動かされ、自然と勇気を貰えるのだった。
もう少しだけ冬が強かった時のこと。
辛夷の花には段々と、小さな蕾(つぼみ)が細い枝々につき始めていた。
立ち止まり木々を見上げると、枝の先には小さな握り拳のような蕾が所々に現れていた。
産毛が生えた硬い皮に守られたその小さな蕾は、筆先のような佇まいで何とも健気で可愛らしかった。
冬の花だからだろうか、冬を越すためには暖かな産毛でその身を守らなければならないのだろう。
彼らはしばし、春が来るまでその身を潜め、蕾のまま休息する。
そして穏やかな春の到来を感じた頃にその蕾は一斉に開き、花を咲かせる。
そんな今、ようやくその花が咲き始めた。
白く大きな辛夷の花は、他の木々がまだ眠る公園でひとり咲き始めた。
春の到来をいち早く知らせる、白い花。
冷たく澄んだ空の青色と、その白がとてもよく似合っている。
毎年辛夷の花だけ先に咲くのは、まだ眠る皆に春の到来を告げるためなのだろうか。
若しくは、もう燻ってなくても大丈夫だと、僕に知らせるためなのだろうか。
辛夷の花が咲き、そして散る頃になると春が訪れる。
もっとわがままに、温かい春が来てからアナタも咲けばいいじゃないのよ、と思ってしまう。
寒さに耐えた末に、春の到来を待たずして咲く辛夷の花。
そしてひっそりと、春が訪れる頃にはその花が散る辛夷の花。
春になればそんな事も知られず、いつしか自分たちの役目を終えている辛夷の花。
そんな自己犠牲を感じる彼らの生き様に、僕は勝手にシンパシーを感じてしまうのだ。
彼らが何を伝えたかったのか、それは分からない。
でも僕には沢山伝わったと思っている。
去年もそして今年も、彼らが咲いて散っていくのを見届けようと思っている。
そして花が散り、本格的に春が訪れる頃、僕の心の中も何か変わるのだろうか。
辛夷の花言葉は「友情」「愛らしさ」「歓迎」だという。
それは僕が前職を辞めて、失ったものばかりだ。
(かなり強引なこじ付けで言うとね。)
だけどこの無職のあいだに、それらを新たに育んできた。
僕には新たな友情もいくつか生まれた。
僕の笑顔に愛らしさが戻ってきた(おじさんなりにスキンケアも頑張っている)。
そしていま、僕も世の中に歓迎されているって思えるようになってきた。
もしかしたら、もう準備は万全なんじゃないだろうか。
僕はもうこれ以上、無意味な不安に身構える必要は無いのかもしれない。
おいお前、今が新たに咲く時だぜ、って背中を押されているのかもしれない。
僕はようやく、今まで固く握っていたコブシを開き、この世界を受け入れる準備が出来たのかもしれない。
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