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『アメリカン・ビューティー』分析

こんにちは。

今回取り上げるのは1999年公開の『アメリカン・ビューティー』(監督:サム・メンデス 主演:ケヴィン・スペイシー)です。

アカデミー作品賞を受賞した超有名作品ですので観賞したことがある方も多いかと思います。以下にあらすじを載せておきます。

あらすじ
広告代理店に勤めるレスター・バーナムは、一見すると幸せな家庭を築いている人物だ。しかし、実際には妻であるキャロリンとの夫婦関係も一人娘のジェーンとの親子関係も冷え切っており、彼自身もそのことに気が付いていた。ある時、娘のチアリーディングを見に行くが、その際にジェーンの友人でチアリーダーの1人であったアンジェラに一目惚れをしてしまう。この出来事をきっかけにして、レスターを取り巻く状況の均衡が崩れ始める。

本稿の構成としては、最初に小道具としてのバラが持つ意味を分析し、その後に二つの場面を取り上げ、ショットの分析を行います。

いつものことですが、本稿は作品を鑑賞されたことのある方が読まれる前提で執筆しているため(ストーリー上重要なものからそうでないものまで)ネタバレを含みます。また、同様の理由から未鑑賞の方が読まれてもわけがわからないことになると思いますので、そこについてもご了承ください。

バラ

まず、本作において小道具としてのバラが持つ意味となぜバラである必要があったのかを検討していきます。前者の分析はいろいろな所でなされているはずなので敢えて取り上げる必要はないかもしれませんが、今回はその分析に説得力をもたせてみます。

最初に、小道具としてのバラが持つ意味についてです。結論から言うと、本作でバラが持つ意味は「外見と内実の乖離の象徴」です。

本作では外見と内実が乖離している人物が多くいました。具体的な場面を基に考えてみましょう。

レスターの妻キャロリンは、夕食の際にはリビングの照明を少し暗くしてテーブルのろうそくを灯し、ゆったりとした音楽をかけることで中流階級や上流階級の家庭であるかのような演出をしていました。しかし実情は、夫婦関係も親子関係も冷め切っていて、キャロリンが理想としているような雰囲気からはかけ離れたものになっています。

バーナム家の隣に引っ越してきたリッキー・フィッツの父であるフランクは、過剰なまでにゲイを毛嫌いしており、息子のリッキーがゲイであると勘違いして暴行を加えるシーンがありました。しかし実際には、彼自身がゲイであったことが作品終盤で明かされます。

レスターが一目惚れをしたアンジェラは、ブロンド美人でスーパーモデルであるかのように尊大に振る舞い、「ヤッた相手のこと」を自慢げに語り、他人を見下す傲慢な少女でした。しかし彼女の話は全てうそで、本当は性行為の経験など一度もなく、普通な少女であることを指摘されただけで激しく落ち込んでしまう弱い人間だということが終盤で明らかになります。

作品中盤でキャロリンと不倫関係になるバディは、不動産王として社会的に成功し、妻と一緒にパーティーに出席するなど何もかもが順風満帆でうまくいっているような人物でした。しかし、彼は妻と離婚調停中であることが中盤で発覚しました。ちなみに、そんな彼のポリシーは「成功するためには成功しているかのように振る舞うこと」です。

これらの人物に共通しているのは、いずれも世間から向けられる視線を気にして、彼らが抱えている悩みや問題を他人に気づかせないように行動しているということです。では、なぜこれがバラの持つ意味だと分析できるのでしょうか。

理由は、綺麗だと評価されるのはバラの花の部分であって、その根がどうなっているかということは確認できないからです。どんなに綺麗なバラであっても、他の植物と同じような(それを見て美しいと評価する人がいるとは考え難い)根を持っています。つまり、綺麗なバラの花という外見を持っていても、綺麗とは言えない根という内実が存在し、両者はかけ離れたものであるということです。

では、他の花ではなくなぜバラだったのかということを検討しましょう。

シンプルに綺麗だからという理由もあるとは考えられますが、ここで重要なのはバラの花言葉だと推測できます。

バラの花言葉は本数によって変化するので一概には言えませんが、本作で多用された赤いバラには「熱烈な恋」「愛情」などの意味があります。

バラに関する描写は、アンジェラに一目惚れをしたレスターの妄想世界において顕著に表れます。このことから、物語のテーマの一つであるレスターの恋心を表すために他の花ではなくバラである必要があったと考えられます。

ショット分析①葬式の車とその道

次にショットの分析を行います。ここで取り上げるのは、ジェーンとリッキーが直線の並木道を歩いていると霊柩車などがやってきて彼らとすれ違い、その後再び二人をロングショットで撮影するというシーンです。

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まず、霊柩車とすれ違うことの意味を検討します。これは、レスターの死とそれを二人が目撃することを暗示していると考えられます。レスターが死ぬということは作品冒頭のナレーションによって説明されていたのでとても分かりやすいですね。

この場面で二人は「死体を見たことがあるか」というテーマの会話を交わしていたことからも、上記の推測に辿りつくように敢えて仕向けられていると考えられます。観客にこの推測に辿りつかせることで、観客に冒頭での二人の会話シーンを想起させ、レスターを殺害したのはリッキーなのではないかという予測を可能にするからです。

次に、このシーンにおける二人の描写に着目して分析します。

若干分かりにくいですが、2枚目の画像ではリッキーが少しだけジェーンの前を歩き、ジェーンがリッキーについて行っているように見えます。これは、物語の終盤で住家を追い出されたリッキーと共にジェーンがニューヨークへと向かう決心をするという展開を暗示するものになっていると考えられます。

また、画面の中央をリッキーに歩かせ、少し中央から外れた部分にジェーンを歩かせるという配置によって、親に対しては反抗的な態度をとっているが自立できておらず、誰かにくっつき、頼らないと生きていけないというジェーンの状況を示すものになっています。

ショット分析②画面の中のジェーン

もう一つの場面についても分析を行います。この場面は、リッキーの部屋でジェーンとリッキーが会話しているというものでしたが、ジェーンの様子はほぼすべてリッキーによって撮影されたものが観客に提示されていました。

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(上:リッキーにより撮影されたジェーン 下:ジェーンを撮影するリッキー)

通常、二人の人物が会話するシーンは肩越しショットの切り返しを用いる場合が多いのですが、なぜこの場面ではそれがなされなかったのでしょうか。

二人の会話にこれを分析するためのヒントがあります。この場面でジェーンはリッキーに対し、「自分の同級生に欲情する父親が恥ずかしい」といった趣旨のことを述べ、リッキーがレスターを殺してあげてもいいと告げると、彼女もそれに乗り気であるかのような返事をします。最終的にジェーンが今のは冗談だと言って、二人は別の会話を始めました。

ここでジェーンの言ったことを整理すると、父親のことを恥ずかしくは思っているが殺してほしいとは思っていないということになります。すなわち、リッキーによって撮影されているジェーンの言葉は嘘だということです。

このジェーンの言葉が「嘘である」ことに対して観客が違和感を抱かないように、あえてリッキーが撮影した荒い映像を観客に提示する意図があったと考えられます。現実を表す映像との質感の変更や、手持ちによる揺れをあえて示すことで現実感をなくし、作られたものだと観客に認識させることで、ジェーンの言葉が彼女の真意に基づいていないということに説得力を与えているのです。

最後に

最後まで稚拙な文章にお付き合いいただきありがとうございます。

本稿で取り上げた作品『アメリカン・ビューティー』については、おっさんが自分の娘の同級生に恋をするというきしょい設定だけ鑑賞前から知っていたのでなかなか観れずにいたのですが、実際に観てみると想像以上に面白くてとても引き込まれました。

まだ観ていない人にはおすすめしたい一作ですが、ネタバレをさせずにいい作品だと伝えるのがかなり難しい気がします。残念。

個人的にはレスターがキャロリンに対して放った「物」に支配されているといった趣旨のセリフで『ファイト・クラブ』を思い出しました。両作品は公開年が同じですし。いろんな人が大量消費を行う世界はおかしいという考えを持っていた時代だったのでしょうか。

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