ディープインパクトの死から思うこと

こんばんは。

別のサイトからの移行分です。

今日も今日とて一日が終わりました。

斜向かいの席の人が愚痴ったり、横の人が黙々と仕事をしていたりそんな見慣れた風景が今日も広がっていました。

なんとも代わり映えしないなと思っていたのですが、お昼に少し前のニュースを思いだしました。

「名馬ディープインパクトが安楽死」。

私は賭け事はさっぱりなんですが、それでもディープインパクトの名前は知っていました。小学生ぐらいのことだったと思いますが、頻繁にディープインパクトの勝利が朝のニュースで報じられ、なんだかすごい馬がいたものだと。足の速い同級生なんかはディープインパクトかといじられたりしていました。

つい先刻まで忘れていたくせして、私にはディープインパクトがある種自身の人生のどこか大事なピース、そのひとかけらの様に思えたのです。そして、そのピースをどこかにやってしまった。そんな気すら起こしたのです。

どうしてか。それは小学生という多感な時にその名馬の名に触れたからかもしれません。あるいは、その名前の響きだけが意味もなく海馬に残っていたのかもしません。

自分なりの意味付けの最中、すとんと腑に落ちたのは、ディープインパクトが自分にとっての平成のひとつであったからというなんとも言葉し難いものでした。

令和になってまだ慣れないという人は少ないのではないでしょうか。たとえいたとしても遅かれ早かれそんな人も令和という時代に馴致していくでしょう。それはきっと私も同じです。

しかし、しかしです。

どこか胸の奥で平成の殻を脱しきれないのです。依然として、新しい時代に羽を広げて飛び立とうなどという気持ちになれないのです。

思えば、それは名馬の死に端を発したものではありません。AbemaTVで行われた那須川天心vs亀田興毅、この試合も令和と平成のぶつかりと銘をうたれたではありませんか。

そして、私は意識せず亀田興毅を応援しました。勝てと。あまつさえ打ちのめせと。

それはきっと私が、馴致できていない人間だからなのでしょう。

新時代ってなんだ。

新時代が来れば、いつもくる明日が劇的に変わるのだろうか。どことも地面が接続されない日本が大陸と地続きになるのか。到底そんなことは起こりえない。起こりえないのにも関わらず、時代というものが自分の周りを駆け抜けていく。掬い上げた砂が手のひらから落ちてしまうような、途方もない虚脱感に襲われたのです。

ディープインパクトは間違いなく私の歴史の一掴みであったのです。知らず知らず、指の間を通り抜け、歴史の砂と化していく名馬。

また、堆積していく歴史がきっとこれからも出てくるのでしょう。それは私の眼前を既に通り過ぎて、ふとした瞬間に私が思い出すものかもしれないし、未だ視界を覆うものかもしれないですが。

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