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「兎が二匹」という名の呪い

※漫画「兎が二匹」(作・山うた)のレビューです。
ネタバレあります。

「兎が二匹」特設サイト





















深い呪いをかけられてしまった。

海を見る度に、ラストシーンのあのモノローグが頭をよぎる。

「いつまでも つづく」
「いつまでも いつまでも つづく」

海は永遠だ。
少なくとも人間の命に比べたら。

でも、海と同じくらい死なない人間がいたら、どうだろう?


398年生きている稲葉すずは、不老不死。
外見は永遠に20代前半で止まったまま、首を切っても全身を粉々にしても、生き返ってしまう。
どうやっても死ねないので、どうにか死にたい殺してほしいと願い続けている。

だからすずは、すべての生物が行っている「いつか死ぬということを規範とした行動」をとれない。
すべての生命に対して共感ができないという、深い孤独を抱えている。

不老不死を描いた有名な作品に、高橋留美子の「人魚シリーズ」がある。
歳をとれないから同じ街に居続けられない、人間関係を築けない、そういった点は「人魚」も「兎」も同じだ。
だが「人魚」は「首を切り落とせば死ぬ」という条件があり、不老不死の人間は何人も存在し、主人公の湧太(ゆうた)と真魚(まな)は不老不死同士のパートナーだ。

また、「人魚」は「なりそこない」と呼ばれる怪物が出てきたり戦闘シーンがあったりと、ファンタジーな世界観のエンターテインメントとしてまとまっている。
対して「兎」は、主人公のすずはこの世でただ一人の不老不死で、死ぬ方法はなく、描くのは現代日本の日常で現実的な描写が続く。
米を炊き洗濯物を干し、風呂上がりにテレビを見て動物園でアイスコーヒーを飲む。

苦いコーヒー。
何故人は、それを好んで飲むのだろう、苦いのに。
ミルクを入れ、砂糖を入れ、美しいラテアートを施し、本来の苦さを見失っても飲み込もうとする。

塩辛いのに、呼吸ができないのに、海に惹かれることと似ている。

永遠に続くものといえば海だ。
地球ができてから少なくとも今日まで、絶えたことがない。
だからサクが亡くなったのは海で、という設定はパーフェクトだ。

サクはすずの恋人。
幼くして捨てられたサクを、すずは見過ごせずに引き取り育てる。
サクは健やかに成長し、いつでも自分の味方でいて守ってくれたすずを好きになる。
(というか、幼い頃からずっとすずを好きだった)

サクにとってすずは、親に見捨てられ深い傷を負った自分を救ってくれた、希望のすべてだった。

しかしすずは、何もかもが人と違う化け物のような「影」の自分が、「子供」という「光」を育てられるのか、と悩む。

自分がいるのは暗闇。
部屋の外は明るいと分かっていても、安々とドアを開けられるはずもない。

だが、サクにとってすずは「光」そのもので、「光」のすずちゃんのことをもっと皆に知ってほしいと思っているので、持ち前の明るく前向きな(子供特有の大胆さや無謀さも含んだ)パワーでぐいぐいとすずを外に押し出していく。

少しずつ大人になっていくサクを介して、すずの世界も広がり始める。
いつしかすずもサクを愛するようになり、サクとすずは、お互いがお互いを影から光の下へ連れ出してゆく。

相互。

そして、だから死にたい。

住み込みの職場の店主。
保護者のママ友。
地域の皆さん。

「この町はとても 楽しゅうて 優しゅうて 暖かくて 賑やかで」

だから死にたい。

広がりゆく人との関わり合いが恐怖となり、すずは一人、部屋の中で自分に刃を突き刺す。

お互いがいないなんて考えられないのに、大切だからこそ一緒にいられない。


すずの世界を広げた人は、以前にもいた。

しかしその人は、すずの目の前で命を終えた。

おせっかいで優しかった町の人も、何もかもいっぺんに吹き飛んだ。

8月6日、広島。

楽しくて嬉しくて、かけがえのなかった時間をあっという間に失った。


その大切な人は花子といった。
革新的なものの考え方をする、新しい時代を切り開く女性だった。
(花子が亡くなった時の絵の表現が物凄い。
真っ黒の顔、歯だけは剥き出しに白く、長かった髪は一本も残っていない)

地獄のような夏の記憶の光と影。

白黒の漫画という表現だからこそ、生きる技法がそこにある。
黒いアイスコーヒーに白いミルク。
強烈な生は、強烈に死を思わせる。
それは残酷なコントラストだ。
その中で、すずは死なないのだから。

骨董修復の技術を持ち、古い物を直してきたすずは、本当に大切だった花子を直すことができなかった。

戦後が過ぎて現代、すずは、好きな物がある。
熱心なカープファンで、動物を可愛いがり、新幹線に乗ってみたいと思っている。
対象に愛情を注ぐことができ、楽しいことも嬉しいこともある。
しかしそのすべてが、辛さしんどさのトリガーとなって自傷自殺に走らせる。

すずの人生は「口減らしのため親に殺される」というあまりにも悲しいところからスタートしている。
(実際には死なないが)

飢饉の時期に親に殺された子供を描いた作品は、山岸凉子の「鬼」が秀逸だが(凄まじいので詳細はぐぐってください、自己責任でお願いいたします)、すずは「鬼に食われることも、鬼になることもできなかった」のである。

同じように捨てられた子供達の中で一人生き残り、自分を捨てた親が死んだ後も生き残り、人間の喰うや喰われるや(飢饉の中での物理的な「人肉喰らい」も、間接的・精神的な「人を喰う」も両方)を否応なく見せつけられ、しかしどの立場にも立てず宙ぶらりんのまま、時代が変わっても生き残った。

時代が変われば価値観も変わる。

すずは398年の中で、数え切れないほどの価値観や考え方を見てきたはずだ。
時代の移り変わり、栄枯盛衰、立場の変化による寝返り。
以前は良しとされたものが糾弾され、跳梁跋扈した悪が救われ、まったく新しいものがいつの間にか世界を覆って、刷新を繰り返している。
そういうものをひたすらに見てきたはずだ。

ずっと続くものなんてない。
すべてが正しく、また、何もかも正しくない。
ずっと続く命をもつすずは、それを骨身に染みて知っていたはずだ。

ではその中で、行動規範となるものは何なのか。


好きな人の言うことを信じたい、と思ったことは、ないだろうか。

好きな人の言うことは正しいし、好きな人が好きな物を好きになりたいし、好きな人を否定するような自分になりたくない。


「目見て笑って おっきく挨拶」
「周りのみんなと笑って元気に」

19年。
すずの生きてきた398年には到底及ばないが、それでもサクが19年の「一生」の中で放った言葉だ。
(この19年という年数も絶妙だと思う。
これでサクが、例えば35歳などであったらキャラクターの作り込みが浅いと感じるが、19歳の青年としてはその「浅さ」がむしろリアルだ。
不老不死で死ぬほど悩んでいる人間に対して「死ねない人生が辛くてもさ やっぱりわざと死ぬのはよくないよ」などと軽々しく言えるのは、若さのなせる技だな…と思う)



数え切れないほどの正しさがこの世にはある。
何を選んでもいいよ、と言われて、1,000個差し出されたら、どれを選んでいいのか分からなくなるのが人間の性ではないか。

しかし、それを選び取る基準が「好きな人の言ったこと」であり、死ねない命を永遠にそれに捧げ続けることができるのなら、もう迷いは生じないのではないか。

首を切り落とされても、原爆に当たっても、粉々にすり潰されても死ねず、「どうにかして死にたい」と思っていたすずは最後に、「死ねる方法がある」と言われても「死なない」ことを選択した。



いつか未来で会える「かもしれない」サクを探して生きてゆけるなら、目的があるのなら、それは茨まみれの美しい道となる。

「好きな人」
それは唯一の道標。
誰にも手の届かない、自分だけの目的地だ。


兎が二匹。
兎は寂しいと死んでしまう、というのは有名で、それが嘘だということも有名で、でも、嘘だと分かっていてもそれに縋らずにいられない、ということがある。

寂しくて死んだ兎になりたかったすずは、死ねる術があると分かったあと、サクを想って生き続ける方を選ぶ。
「絶対に置いて逝けん」と選ぶ。

死なないすずが、自分の帰る場所になるとサクは思っていた。
しかし、すずの帰る場所になったのはサクの方だった。

すずは大切な人を裏切らない。
置いていかない。
風化させない。

一緒に骨董の仕事をしたい、という花子の願いを、花子がいなくなってからしっかり叶えた。
すずちゃんと結婚したい、というサクの願いも、サクがいなくなってから律儀に叶えた。

好きな人の放った言葉を、命のすべてを注いで信じて。


かけがえのない言葉だけを、思い出に変えられたら。

キラキラの輝き、嬉しくて心躍ったこと、胸の奥ではずんだリズム。
それだけを思い出にできたらよかったのに。




この漫画を読んだ頃、私は海のそばにいた。
日本の有人島の最北端、礼文島。
遅い春から早い夏にかけての3ヶ月間を、その島で暮らしていた。

北緯45度。
吹き飛ばされそうなほどに強く吹きつける風の中で、鮮やかな花々が千切れそうに揺れる。
そんな島だった。

南国の海とは別の鮮烈さを持った深い色の海は、穏やかな日もあれば荒れる日もある。
それはまるで人間の感情のようだった。

海を眺めて過ごす毎日。
ゴウゴウと鳴る海風、バシャバシャと繰り返される波音の中で、終わらず続いていくものとは何かと考えた。
いつまでも答えは出なかった。

水平線にゆっくりと吸い込まれていくフェリーを見ていると、もう二度と戻ってこないんじゃないかという気持ちにとらわれた。
こちらに向かってくる船も、すぐそこまで来ているのが見えているのに。

島を出てから、旅に出た。
相棒は青い自転車。
海の青、空の青、20kgの荷物を荷台に積んで。
地図を見て行き先を決め、今日はこの街まで走ろう、ここは寝床になりそうだ、と思案する。

よく走った道は海沿いだ。
オホーツク海、津軽海峡、日本海。
風は抗えないほど強く吹きつけ、前後左右には誰もおらず、海と一本道だけを見てひたすらに自転車を漕いだ。
どの海を見ても、すずのことを思い出した。

ああ、この海にもすずは潜ったのだろうか。
まだ潜っていないだろうか。
いつ潜るのだろうか。
いつか必ず、潜るのだろう。

漕ぎ続けるペダルの回転に引きずられるようにして、私は何度も頭の中で繰り返した。

「いつまでも つづく」
「いつまでも いつまでも つづく」














ヘッダー写真撮影地:北海道・宗谷岬

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