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夏色

ゆずが夏色を再録してた。ゆずファンは主に2派閥ある。左翼と右翼。つまりは北川派と岩沢派である。僕は岩沢派であるからして。岩沢さんの、六甲の美味しい水のような、声を聞くだけでニルヴァーナ。どうしても贔屓してしまう。北川さんに対しては。例えば再録された夏色を聴いて。昔のダミ声のほうが、岩沢さんとのコントラストが出てて、好きだったなァ…的なことをイチイチ思ってしまいます。でも、夏色を作ったのは北川さんだし。ゆずをゆず、たらしめているのも、北川さんなのです…。岩沢さん1人では、たぶん走り続けることは、難しかったでしょう。スルメみたいな岩沢さんと、ガムみたいな北川さんが左右で合わさって、唯一無二の世界を創っておられた。その力強いコントラスト加減は、誰にも真似できなかった。19、コブクロ、唄人羽、平川地一丁目、サスケ、セカハン、ワカバ…。ゆずに続いていった、路上のフォークデュオ達。今でも第一線なのは、ゆずただ一組。やはり創始者は強かった。バンドブーム、ライブハウスがトレンドの最中、孤独に、伊勢崎町の路上で歌っていたふたりは強かった。その歌声が、日本海を超え、北京日本人学校に向かうスクールバスの中で、中学生1年生の僕を揺さぶったのだ。その後にボブディランに傾倒しようが、RADWIMPSを聴こうが、ジャズを勉強してみようが…原体験を塗り替えたり、超えたりすることはできない。夏色を聴くと、胸に迫るものがあるのですよ。僕は、フォークデュオの中に、相方という神話を見ていた。オルター・エゴ。当時はそんな言葉、知らなかったけど。村上春樹の僕と鼠。フィッツジェラルドのニックとギャツビー、チャンドラーのマーロウとレノックス。自分にはない何かを、相方が引き受けることで成り立つ世界。自分のギザギザに、ぴったりハマる、自分の投影というか。影というか。別の可能性というか。そんなものを、ふたりの声が織りなす和音を聴きながら思うのだった。相方を見つけるには、自分のギザギザの形や、自分にあるもの、ないものを把握しないといけない。でも、知れば知るほど、相方っていうのは、御伽話で。完全に自分の隙間を埋める他者なんて、ほぼイコール自分じゃないか。でもだからこそ、惹かれるのであった。そんなものが存在してたらいいなーと。僕は解散したフォークデュオを聴くと切ない気持ちになるし、ゆずを聴くと、励まされる。すくなくとも、そこにはまだ御伽話が生きてる気がする。1017文字

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