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【小説】 汝、人参を愛せよ (2)

 思えば、私はいつもみどりの数歩後ろを歩いていた。そのせいで、私は彼女の顔よりも、彼女の背中に残るシャツの皺なんていうどうでもいいことを鮮明に覚えている。
 左。次は右。ここからはずっと真っ直ぐ、行くよ!
 叫ぶように張り上げられた声が、風に圧されて強く弱く揺れながら私の耳に届く。私は碧のうしろで小さく返事をした。陸上で鍛えられた体は私の体より頑丈に決まっているのに、腕を回した碧の体が私の想像の何倍も細くて一気に不安になった。思わず彼女のシャツをぎゅっと握ると、碧はお腹から声を出して笑った。
 舗装の荒い下り坂を行く新品の赤い自転車が、二人分の重みに小さく悲鳴を上げていた。息をすれば碧の匂いがした。びゅうと風に煽られた彼女の髪が私の頬を打って、そこだけがジンと熱を持った。
 自転車の二人乗りは、一体いつから禁止になったんだっけ。私は自転車を持っていないから気に留めなかっただけで、ひょっとするとあの頃から禁止だったんじゃないかと、思い出す度に奥歯に物が挟まった時のような落ち着かない気持ちになる。
 鉢植えいっぱいに茂ったミントをりながら、ハーブティーを淹れようと決めた。今日のメニューは人参入りオープンオムレツ。窓際の小さな人参株畑は、日に日に賑やかさを増している。
「こんにちは、マリさん」
「わ、びっくりした。もう終わったの?」
 突然かけられた声に胸の奥がひゅっと縮まった。振り返ると、縮こまった私を見て葵ちゃんが笑っていた。
「今日は午後ずっと自習だって言うから、お昼だけ食べて抜けてきちゃった」
 葵ちゃんはつまらなさそうに言って、家の脇のベンチに座った。背が高くなった雑草を革靴の先でくるくると弄んで、つんと弾く。
 いくら自習でも、授業の出欠も帰りのホームルームもあるでしょう。ちゃんと行かなきゃダメだよ。そう言いかけて、口をつぐんだ。私は今の葵ちゃんに口を出せるほど、立派な学生時代を送っていない。
「……人参レシピ、もう出来てるよ。でも、まだお腹空いてないよね?」
 お昼を食べたばかりだと言っていた葵ちゃんは、予想に反して私の言葉に首を横に振った。
「ダイエットしようと思って少なめにしたら、どんどんお腹が空いてくるんです」
 この細い体のどこを削ろうと言うのだろう。美意識が高すぎるのも考えものだ。
「それは困ったね。少し待ってて」
 私は葵ちゃんを残してオムレツを取りに行った。鮮やかなオレンジと黄色のオムレツの横に自家製ハーブティーも添えて。トレーを持って外に出ると、太陽に透かされたガラス製のティーポットが私の腕にきらきらと黄緑色の影を落とした。
「わあ。すごい。どうしたんですか?」
「今日は特別。ミントがたくさん育ったから」
 トレーに乗せられたカフェセットに葵ちゃんは目を輝かせた。普段、年齢の割に落ち着いているように見えても、それとこれとは別らしい。
「いただきます」
「召し上がれ」
 葵ちゃんはハーブティーを一口飲み、美味しいと呟いた。それからオムレツのお皿を手に取って、フォークの先で小さくカットして口に運んだ。
「どう?」
 最初の印象は悪くない。だけどいつも……ああ、やっぱり。今日もダメだった。葵ちゃんは申し訳なさそうに謝る。せっかく作ってくれてるのに、と。その顔を見るとこっちが申し訳なくなる。元々、こんなことをさせているのは私の方なのだから。
「無理しなくていいのに」
 葵ちゃんは残りのオムレツを一気に口に放り込み、ハーブティーで流す。トントンと胸を叩き一度深く呼吸をした後、私の言葉に答えた。
「無理とかじゃないんです。ただ苦手なだけで……それに、始めたからにはやり遂げたいし。あと、これ」
 葵ちゃんはどこからか大きなタッパーの入った紙袋を取り出して、ここ数日の人参料理を持って帰りたいと言った。葵ちゃんは人参が苦手だけれど、家族はむしろその逆だそうだ。それも仕方のないことだな、と私は思った。
「じゃあ今詰めてくるね。ちょっと待てる?」
「あ、いや、今日は」
「うん?」
「食器、私に洗わせてくれませんか?」
 いつもは遠慮して何にも触らないようにする葵ちゃんがそんなことを言うなんて。少しは、仲良くなれたということだろうか。
「いいよ、上がって」
 葵ちゃんはいつも以上に緊張しながら中へ入ったけれど、洗剤やスポンジに迷うほど細かくない台所にホッとした様子だった。
 私はカチャカチャと食器の洗われる音を聞きながらタッパーにオレンジ色を詰め、保存方法と食べ方のメモを書き添えていった。
「……ねぇ、マリさん」
 葵ちゃんはいつになく真面目な声だった。
「なに?」
「普通に生きるのって、大変ですよね」
 私はペンを進めることが出来なくなった。数秒の後、人生相談? と私が冗談めかして訊き返すと、葵ちゃんはきゅっと蛇口を閉めて振り返った。
「時々、自分が自分じゃないみたいに思う時があるんです。私はみんなが言うほどいい子じゃないし、良い人でもないのになーって」
 笑おうとする葵ちゃんの瞳に息を飲んだ。私は、その表情をよく知っていた。
 そうだねぇ。言いながら視線を落として、慌ててペンを持ち上げた。ペン先から滲んだインクがぐずりと紙を裂いて、テーブルを汚していたのだ。私はさっきおろしたばかりの布巾でインクを拭き上げながら、沸き立ちそうになる心を必死に抑えた。
「誰かの言う普通になるのは、大変かもね」
 葵ちゃんは私の言葉を静かに聞いていた。
「でも、少しの勇気があれば、変わることもあるかもしれないよ」
 私は新しいメモ紙にペンを走らせ、最後のタッパーを紙袋にしまった。ぼんやりする葵ちゃんに紙袋を差し出すと、彼女はハッとしてそれを受け取った。
「ありがとう、ございます」
 このありがとうは、何に対してのありがとうだろう。いくら訊かれたことだからといって、いい歳して高校生相手に語ってしまった自分が恥ずかしく思えて、今更になって顔が熱くなった。
「ごちそうさまでした。じゃ、また」
「うん。気をつけてね、葵ちゃん」
 葵ちゃんは大きく手を振り、背を向けた。私は走り去る彼女の背中が見えなくなるまで玄関先に立つ。そして見えなくなっても、立っている。錆びた自転車の悲鳴は、防風林に埋もれて徐々に遠くなっていく。
「……残り、いくつだったかな」
 そうして最後に波の音しか聞こえなくなった時、私はそっと、頬に触れた。

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