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【小説】 汝、人参を愛せよ (4)

「あーあ。これは直らないな」
 桜庭くんの声が頭の中で何度も跳ねて耳から抜けた。駐車場の屋根に反射した太陽に目が眩んだ私は、桜庭くんが何を言っているのか理解するまでに少し時間がかかった。
「真鍋……」
 私の名前を呼んだのは桜庭くんじゃなかった。何度か瞬きをしてようやくまともな視界を取り戻した私の前には、髪をかきあげて地面に視線を落とす桜庭くんと、真っ白な顔をした矢野くんが立っていた。
「ごめん。本当に、ごめん!」
 矢野くんは私を見るなりすごい勢いで体を九十度に曲げ、頭の上でパチンと手を合わせてそう言った。
 正直、どう答えるか迷った。ぷりぷり怒ろうか。泣いて被害者ぶろうか。色々と考えたけれど、結局、頭を上げる気配のない矢野くんにかける言葉は一つしかないのだと気づいて、ちょっぴり悲しくなった。
「いいよ、別に」
 私の愛しの相棒は、倒れた矢野くんの自転車の下敷きになっていた。前カゴはぐにゃりと歪み、ベルだった部分は割れて地面に散り散りになっている。
 周りの自転車が倒れていないことと矢野くんの態度からして、多分、矢野くんが不注意で倒してしまったということだろう。
「もうボロだったし」
 可哀想な相棒。だけど倒れただけでこんなことになって、矢野くんだってビックリしただろうな。
 私は少しだけ矢野くんに同情した。ボロ自転車の隣に停めてしまったばかりに、こんなことになって、さらには自分の自転車にも錆を擦りつけることになってしまったのだから。
「あの、ほら、修理とか……弁償する、から」
 矢野くんはもごもごと口の中で言葉を噛みながら倒れた自転車を起こしてくれた。
「あー、いいのいいの。修理とか買替えとか、それは小川のおじさんとこ持って行ってから考える」
 私がそう言うと、矢野くんは途端に表情を曇らせる。ああ、これは、次に来る言葉は、そう──
「小川って小川正俊?正俊の家って、確か──」
「自転車屋さんだよ」
 言葉の続きを知っている私は、矢野くんの言葉を遮った。私の圧にきゅっと押し黙る矢野くんと、私のピリついた空気を察したらしい桜庭くんは「俺先帰るわ」と言ってそそくさと去って行った。桜庭くんは優しいけれど、情に薄いというか、こういうところがある。私はますます友希の気持ちがわからないと思った。
「とりあえず、私は行くから」
「いや、お、俺も行く」
 歪んだ自転車を押す私の横を、慌てて自転車を出した矢野くんが歩く。矢野くんは申し訳無さそうに私の荷物を預かると言って、私は素直にそれに甘えさせてもらった。
 矢野くんの自転車は、スクールバック二つにバスケットボール三つ担いでも静かでへっちゃらだった。対して何も乗せていない相棒から響くのは、いつにも増して痛々しい悲鳴だけだった。
 
「こんにちはー!」
 誰もいない店内に向かって叫ぶと、帽子を目深に被った小柄なおじさんが店の奥からひょっこりと顔を覗かせる。おじさんは私の顔を見て目を丸くした後、頬に深い笑窪を作って私たちを迎えてくれた。
「よお、コハルちゃん。久しぶりだねえ」
「お久しぶりです。今日、小川くんは?」
「俺はここに居るけど。まぁ、正俊は塾だな」
 コハルちゃんと呼ばれた私を見て、矢野くんが眉間に皺を寄せる。矢野くんは平然と会話をする私たちを怪訝そうな顔で交互に見た。
「修理、お願いしたいんです」
「どれどれ……あー、こりゃ酷いな」
「直せますか?」
 小川のおじさんは相棒を自転車止めに固定して、丁寧に診察をしてくれた。車輪を回したりブレーキを握り込んでみたり、関係なさそうな所までチェックして、一度唸ってから深く頷いた。
「警音器とカゴだけ変えりゃあ、なんとかならんこともない。この自転車は随分古いから、同じ型のものは無いけども」
「他は問題ない?」
 私が訊くと、おじさんは豪快にガハハと笑った。奥歯の銀色がきらりと光る。
「ああ、問題ない」
「じゃあ、それで」
 よしきた。そう言って腕まくりをしながら部品を取りに店の奥へ入っていくおじさんの背中は頼もしい。暇つぶしに店内に残るタイヤの跡なんかを数えていたら、外で待っているはずの矢野くんがつんつんと私の肩をつついてきた。
「本当に問題ないのか?」
 こそこそと耳打ちされたのは、違和感を覚えるらしいおじさんへの不安だった。ああ、本人の前でなくて良かった。矢野くんは脳に直接口がついているような人だけれど、度を越した失礼な人というわけではないらしい。
「あるけど、ないよ。自転車のことではね」
 私はそう答えた。
 小走りで戻ってきたおじさんの手によってみるみるうちに錆と埃が落とされて、古い自転車に新品のベルとカゴが付く。滑らかに回る車輪もよく効くブレーキも、小川のおじさんの手に掛かればあっという間だ。最後にシュシュッと油を刺され、錆びついた相棒は今朝よりもずっと綺麗になって私の手に戻ってきた。
「まぁ、こんなもんで」
 ふうと息をついたおじさんの額には汗が滲む。こうしていると、何も変わっていないように見えるのになぁと、胸の奥の方がツキリと痛んだ。
「おじさん、ありがとう! それで、今日はいくら?」
「いいや、コハルちゃんからは貰うなってきつく言われてるからよ。今度土産でも買ってきてくれたら、それでチャラってことで」
「いいんですか?」
「ああ。いいって。また今度な」
 小川のおじさんは、私たちが見えなくなるまで店先に立っていた。私たちが曲がり角でお辞儀をしたら、一度だけ手を振って店の奥に消えていった。
 綺麗になってもやかましい私の自転車と、静かな矢野くんの自転車。防風林の中をゆっくりと並走して、坂を下った。
「ところで、コハルちゃんって誰?」
 ずっと気になっていたらしい矢野くんがそう切り出した。私は答えなかった。コハルちゃんはおじさんの奥さんの妹の子供で、つまりは小川くんの従姉妹に当たる人だけど、そんな細かいことを矢野くんに教えても意味がないと思ったからだ。
「ボケてきたって、本当だったんだな」
 私が何も答えないと悟った矢野くんは、独り言みたいにそう言った。
「仕事は完璧だよ」
 私は本当のことを言った。矢野くんはそうだねと言ったきり、何も言わなかった。
 小川のおじさんの腕はきっと鈍っていない。だけどおじさんは、とっくに畳んだお店を毎日毎日、律儀に開けては、閉めている。何事も無かったかのようにお客さんを待って、私をコハルちゃんだと思い込んで。一方その横で、小川くんは番頭椅子に座って金庫番をしたり、家の手伝いをしたりているのだ。
 部品を注文していないこともお客さんが来ないことも不思議に思わない父親を眺めながら、小川くんは、どんな気持ちで毎日あそこに座っているんだろう。
「うわ、ぼーっとしてた」
 矢野くんの声で視線を上げると、海の上を夕陽がゆらゆらと踊っていた。途中で曲がらなければならないところを、二人して呆けて真っ直ぐ海まで出てしまったらしい。
 そういえば、明日は人参パンケーキだって、マリさんが言っていた。まぁどうしたって人参なのだから、苦手な味だろうけど、でもきっと、こんな風に綺麗なオレンジ色なんだろうと思った。
「真鍋はさ、平気なの?」
 私は唐突に投げられた問いを掴みきれなかった。矢野くんを見ると、彼は気まずそうに視線を海と私とで行き来させた後、小さな声で「足」と言った。
「ああ、コレ。もう平気だよ」
「速かったよな、本当に」
 走っていた頃の私を、矢野くんは知っているのか。私が矢野くんという人間を認識する前から、矢野くんは私を認識してくれていたらしい。
「もう走らないの?」
 期待のエースが一転、繰り返す故障から電撃引退までのどこで私を知ったのか、みんなが避けて通る話題をぶつけてくるのはさすが、矢野くんって感じだ。
「違う。走れないの」
「そうなの?」
「そうだよ」
 ずっと喉の奥につかえていたことも、口に出してしまえば簡単なことだった。怪我をしたから、走れない。ただそれだけだ。吐いた息につらさが滲み出ていくように、体が少し、軽くなった。
「残念。もう一回観たかったな」
 矢野くんは悪意がない。それは彼の良い所だけれど、良い所は必ずしも良い言葉を生むわけではない。こういう時は、悪意がある言葉よりも悪意がない言葉の方が鋭利だ。
 だけど私はむしろ気持ちが良かった。腫れ物を触るように慎重に扱われる自分でいることは、すごく息苦しかったから。
「走れると思うけど」
「しつこいなぁ。今は気が向かないの」
「そっか。今は、ね。今は」
 良いことと悪いこと。全部合わせて100%になるように人生は出来ていると、マリさんが言っていた。今日は思い入れのある自転車を半分失って、直して、思いもよらないところから意外な友達を得た。良いことばかりを拾い集めれば、悪くない一日だったような気がする。
「じゃ、私こっちだから」
「ん、また明日」
 私は右に、矢野くんは左に。夕陽を境に別れて帰った。ご機嫌な相棒はやっぱり、ギィギィ鳴いた。

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