【小説】 汝、人参を愛せよ (3)
──ピピッ ピピピッ ピピピピッ
頭のすぐ後ろで鳴ったアラームを止めて、布団の中で伸びをする。朝。もう朝。また、朝だ。
顔を洗い、制服を着る。ひと回り詰まってしまったスカートのウエストにため息が出る。そろそろ何か、部活の代わりになるものを探さないといけない。
「おはよう葵ちゃん」
「おはよ。母さん」
リビングに入ると、美穂さんが明るい声で私を迎えた。私は短く返事をして、食べきれないほどたくさんのおかずが並んだ食卓につく。
「ママ! もう間に合わないから、ごちそうさま!」
お姉ちゃん、遅れるよ。そう言った茜は席を立つ。茜のお皿の上のおかずはまだ半分以上残っていた。
「茜、ちょっと待ちなさい」
低く唸った美穂さんはそんなことよりも茜の服の方が気になるようで、埃取りを片手に、乱暴に歯磨きをする茜の周りをぐるぐると回る。
これも一つの愛情の形か、と思った。
私は茜の残したおかずに箸をつけながら、無意識のうちに甘やかされ続ける妹の将来を憂いた。
父さんが仕事詰めで家を空けることを「家族のため」と悪く思わないように、過剰に思える世話も美穂さんにとっては普通のことなのだ。本人に甘やかしているつもりが無さそうなところなんか、特にそう。
絶妙な均衡を保って繰り返される誰かの普通。俯瞰してしまうと、ゾッとする。私は、その普通と普通の狭間に漂う自分を知っている。
「ごちそうさま」
「あら、もういいの!?」
まるで減っていないおかずを見て目を丸くした美穂さんの横で、お皿にラップをかけて冷蔵庫にしまう。
「茜の残りを食べたから。私の分は、夜食べる」
ほぼ毎朝そうしているのに、美穂さんは飽きずに毎日心配そうな顔をする。ダイエットはダメよ。と、歯磨き粉を絞る私に美穂さんが声をかけた瞬間、玄関先から茜の叫ぶ声が聞こえた。何を忘れただの、取ってだの。美穂さんは大袈裟にため息を吐き、くるりと体の向きを変えて走って行った。
ふと目が合った鏡には、家族の誰にも似ていない女の子が一人、映っている。
「普通、朝ご飯は夜に食べないよね」
ミント味と書かれた歯磨き粉。その味の向こう側に昨日飲んだハーブティーの香りを見つけられやしないかと、私はいつもよりしつこく歯磨きをした。
まだ寝ぼけているみたいな空気を切って、ギィと一言挨拶をした相棒のハンドルを握る。
昼は随分暖かくなったけれど、朝はまだ肌寒い。サドルでお尻が冷えるのが嫌なのと長い長い坂道を漕いで登るのが億劫なのとで、朝はいつも自転車を押して行く。
少し歩くと道の両脇に聳える防風林の中から虫と鳥の声が忙しなく聞こえて来る。会話をするようなその声たちに耳を傾けながら、私は私の部屋の壁紙だけに残された粗末な蛍光シールの日焼け跡を想った。
美穂さんは優しくて、豊かな人だ。溢れんばかりの愛情のシャワーを、私と茜に注いでくれている。でもどうしても、あの日焼け跡とは一致しない。
もうお姉さんだから、これは外そうね。そう言った父さんが私の顔も見ずに脚立に乗り上げたから、ああ、拒否する方法はないんだと、私はそれが外されていくのを黙って見ていた。人生で初めて真っ暗な部屋で寝た夜、大切なもの一つ「大切だ」と言えない自分が嫌になって、布団に隠れて少しだけ泣いた。
美穂さんは、継母だ。私が気づいた時には父さんだけで、そこから先は美穂さんとの記憶ばかり。今更気にする方が変なのかもしれないけれど、それでも私と美穂さんの間には、風船一つ分くらいの距離が存在していると思う。
美穂さんが私を葵ちゃんと呼ぶように、歳の離れた妹を茜と呼ぶように。私が心の中で美穂さんと呼ぶように、確かにそこには、距離がある。
美穂さんは私が人参が苦手とか、卵焼きのしょっぱい方が好きとか、そんなことも、きっと知らない。
「おはよ!」
「お、はよ」
思い切り背中を叩かれて、息が詰まった。
目が合った友希はニッコリ笑い、私の自転車のベルを捕まえて力いっぱい鳴らす。するとジリリと錆のつかえる音が鳴り、彼女はケラケラ笑い出す。
ビンテージだからなぁ。と私が言うと、友希は笑い過ぎて目尻に溢れた涙を指で掬いながら、言葉にならない声でやめてよと言った。
「修学旅行先の希望、適当に書いちゃった」
一通り笑った後、友希はそう言って退屈そうに欠伸をした。
「まぁ、一人二人の意見でどうにかなるものじゃないし。私はどこにしようかなぁ」
「え?もしかして忘れてた?」
「いや、今思い出した」
それ忘れてたって言うんだよ。友希は笑いながら私の背中をバシバシと叩く。
「進路も今日だよ」
「嘘」
「嘘じゃないんだなぁ」
道が開けて、学校が見えてくる。小石を踏んだ拍子に足首が突っ張って、ここを誰が一番早く登り切れるか競ったこともあったな、と、全く関係のないことを思い出した。
「忘れてたなぁ、どうしよう」
進路希望調査票。小さく小さく折り畳んだそれは、白紙のまま、鞄の底に沈んでいる。
「友希はどうする?」
「私は……普通に、大学に行こうかなーって……」
友希はもじもじと毛先を人差し指で丸め始めた。きっと隣のクラスの桜庭くんと同じにしたいとか、そんなところだろう。
「桜庭くんってそんなにいい?」
「声が大きい!」
「ごめんごめん」
友希はずっと片想いをしている。だからって大学まで彼に委ねてしまうのはどうかと思うけど、その情熱だけは、少し羨ましい。
じゃ、また後で。私を追い越した友希が駆けて行った先には今日も桜庭くんが居る。頬を染めた友希の横顔を見るのがむず痒くて、私は視線を空に向けた。
ひつじ雲がゆっくりと動いて、耳につけたイヤホンからはビートルズの曲が流れる。それは軽やかに私の体の中に入って、俯瞰する私を誰にも見つからないようにこっそり着陸させてくれる。私はボリュームを三つ上げ、ゆっくりと瞬きをした。
思い切り吸い込んだ今日の始まりは、太陽と日焼け止めの匂いがした。
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