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明治以降に発展した香川県産はだか麦

「香川県農業史」によると、日本で大麦が栽培されるようになったのは四世紀~五世紀始め頃。朝鮮から伝来したと言われています。古来(奈良朝)より朝廷または領主に対する貢租(=年貢)は、米納が中心で裏作の大麦は農民の取り分となっていたため、農民は麦作に力を注いできました。このことは明治になっても変わることなく、大戦後の農業改革まで続いたようです。

香川県で麦作が発展した7つの理由

「香川県における麦作の変遷」によると、明治以降に麦作が発展したとあります。その理由として次の7項目が挙げられています。

①はだか麦に適した自然条件と立地条件であったこと

香川県の気候は温暖で降雨量が少ない瀬戸内海気候です。香川県の耕地の大部分は水捌けがよい乾田。土壌がよく乾燥し、水田裏作での麦作が可能で麦作に適した土地でした。

②米麦以外に有利な作物がなかったこと

充分な管理を行うことで収量の増加が期待でき、米麦以外に有利な作物がなかったため、麦作に力を注いだようです。

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③所得源および主食であったこと

明治から昭和初期にかけて、年貢として米を収めており、年貢を収めたあとは少しの米しか残らなかった。大麦は年貢の必要がなく、収穫した物は全て自己の物。そのため、販売用、主食用としてはだか麦の生産に励み、生活の安定へと繋げていました。また、はだか麦10に対し米2~3の割合で混ぜて食べていたそうです。昭和35年の調査では農家の6割がはだか麦を食べており、はだか麦2割に対して米10だったそうです。

④副業としての麦稈真田編みが盛んであったこと

明治から昭和15年頃にかけて、農家の唯一の副業が麦稈真田編みでした。(麦稈真田とは、麦わらを平たくつぶして編んだもで、麦藁帽子や袋物などを作るのに用います)

特に明治40年~大正8年頃にかけてはとても盛んでした。その後年々減少し、昭和14~15年からは戦争の影響と新たな副業が登場したため急速に減少し、昭和30年頃には全てなくなりました。県では副業推奨のため、麦稈真田用の推奨の品種として明治42年から昭和17年にかけてコピン系統の品種(稈の上位節間の長いもの)を採用しました。

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⑤精麦業の発達と精麦の移出

香川県の精麦は明治34年~35年頃坂出市の住人により足踏みで始められ、近県や北海道まで移出されました。昭和35年、香川県食品工業の第一位を占めていた精麦工業は坂出市を中心に広く県下で行われ、全国的にその名声と地位を占めていました。数10社あった精麦会社も現在は2社のみとなりました。

※㈱高畑精麦は香川県善通寺市で明治21年に創業し、製粉業などもしていました。

⑥はだか麦の価格支持、買入制度の制定

大正末期から昭和にけけて製粉工場が発達し、小麦の輸入が多くなったため、政府は昭和元年、7年に小麦増殖計画に着手し、価格維持、買入制度の制定、生産奨励、技術普及を行いました。香川県でも国の方針に従って小麦増殖を行い、はだか麦も同様に発展しました。

⑦麦作技術の進歩

香川県の麦作技術は高く、技術の改良と研究が行われていました。

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今回は、香川県ではだか麦の栽培が盛んになっ理由をご紹介しました。一番大きいのは土地に適した農作物であったということだと思います。以前、生産者が教えてくれました。

はだか麦栽培は

人の手2割・土地の恵み8割

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