アンバランスの水槽
こうやってきれーに服がならんでんの見てると、ぐちゃぐちゃに壊したくなりません、と真実ちゃんは言った。私はお金を数えながら、ドアの施錠をし終わった彼女がレジのすぐ目の前で落ち着きなく身体を揺らしているのを数秒見つめる。綺麗に結われていない茶髪のツインテールの毛先は遠目に見ても傷んでいて、後れ毛らしき髪の分量は左右非対称だった。
「そうかな」
「あー、沙也香さんには分からないかな。人生のレール踏み外したことなさそうですもんね」
「そんなことは、ないけど」
そう答えながら、意識は自分の爪に飛ぶ。透明なトップコートが根元と伸びた部分とで境目ができていることが気になった。家に帰ったらすぐに塗り直そう。私はレシートに表示されている総合計金額と手元にある現金が一致するのを確認して、レジ下の透明なジッパー付きの袋にその一式を移していく。真実ちゃんは私の返答が微妙なものであったことに少し不満そうな顔をしていた。
「ほら、もう八時だし、着替えて帰るよ」
「はあーい」
「ちゃんと電気消してね。あのひと癇癪(かんしゃく)持ちだから、気をつけないと朝から怒られる羽目になるよ」
「はあーい」
伸びきった返事は何度言っても直らないので、半年前に注意するのを諦めた。田舎のクリーニング屋にそこまでの接客スキルも必要ないように思うけれど。
「沙也香さんって真面目ですよね。ぜんぶのことに手ぇ抜かないっていうか」
「うーん、比較的そうかも。仕事じゃなくても、均等に揃えられてるものとか、綺麗に整ってる状態が好きなんだと思う」
「うへえ。変わってる」
乾いた真実ちゃんの笑い声に、私は、そうかな、と適当な返事をする。たぶんどちらかというと真実ちゃんのほうが変わってるよ、という言葉は胃のあたりでしゅわりと全身に溶けて私の一部になった。じゃ、消しまーす、という声とともに、ばちん、と大きな音が鳴って、先ほどまで私達のいた空間から生(せい)の気配が遮断される。
真実ちゃんには、男運がないくせによく二人で暮し始めてはボロボロの状態になって出勤する朝がある。料理もできない、掃除もできない、お金の管理もできない。その三つが重なったとき、最後、だらしない、という決定的なポイントで追い出されるんです、と数ヶ月前に彼女が私に話した言葉が頭の中で繰り返される。じゃあなにが良くて相手のひとはいっしょに暮らそうって言ったんだろうね、という台詞は、私の胸のどこかで発生して、消えることなく今も身体のどこかに張り付いている。
「新島さん、もしかしてまだ真実ちゃんきてないー?」
「はい、来てません」
店内のかけ時計の時刻は七時四十五分を示していた。あと十五分で開店。
「そっかー。了解」
店長の坂田さんは、あ、今日モーリアで、と小声で話すと煙草を吸いに外へと出て行った。こんなときでも、坂田さんは真実ちゃんの遅刻について特別咎めたりしない。電話をするわけでも、出勤時に叱るわけでもない。私はそれが、坂田さんの真実ちゃんに対する呆れなんかじゃなく、歪んだ感情からくる許容であることを知っている。
「沙也香さん見て。これ、めだか」
いつもなら二十メートル前くらいから走ってくるはずの真実ちゃんは、何を反省するわけでもなく、その右手にビニール袋の中を泳ぐめだかを持って正面入り口から入って来た。
「なにやってるの」
「昨日ね、彼氏だったひとに家追い出されたあと、近所の神社でめだかすくいやってたんです。んで、そこのおじちゃんが一泊あたしのこと泊めてくれて、今」
「ちがう、ちがくないけど、そうじゃなくて。仕事。これ、仕事だからちゃんとしてって何回も何回も言ってるよね。真実ちゃん、遅れてきてるんだよ、それちゃんと分かってるの」
「もう、沙也香さん、ちゃんと、って言葉好きすぎ。今着替えてきまーす」
すれ違う瞬間、ひどく甘ったるい香水の香りがして、私は顔を歪める。真実ちゃんに対して、自分の感情を動かして発生するエネルギーこそ世界でいちばん無駄なもの。そう自分に言い聞かせながら、そのコントロールがきかなくなりはじめていることに小さな苛立ちを覚えた。
「すいませんでしたあ」
数分して、なにごともなかったかのような顔をしてレジに入る真実ちゃんを私は観察する。いつになく唇が突出しているように見えた。軽く油ぎって見える頬には赤みの強いにきびがいくつも浮かんでいる。不均衡だ、と思う。日差しの入らない湿度の高い坂田さんの部屋で聞いた、あのこはふきんこうだから、という言葉を反芻(はんすう)しながら。
「ね、沙也香さん」
「なに」
バックヤードに入ろうとした瞬間、真実ちゃんが私の腕に軽く触れた。熱い、と思った。
「めだか、ここで飼いたいです」
「は?」
「だから、めだか、ここで飼いたいです」
「だめだよ」
「えー、なんで」
「なんでもなにも、職場だからだよ」
「職場だったら、なにか生きもの飼ったらだめなんですか?あたし今日から家ないけど、この子たちに罪はないし、飼いたいなあって」
「ほら、それに今回のフラれ方ひどかったんです。見てくださいよ、これ。特典付き」
服で隠れた箇所に広がる大きな青あざをお気に入りのタトゥーみたいに紹介する声色はさきほどから何一つ変わらない。ただ、そうしてにこにこと笑いながら私の目を見つめる真実ちゃんの瞳はグレーに揺れていた。透明感とはかけ離れている色。そしてそれはきっと、ドンキで買っているという無名ブランドの安いカラコンのせいなんかじゃない。
「ばかじゃないの」
私は口から大きく息を吐き出して、真実ちゃんの手に触れた。想像通り、べたついていたし湿り気もあった。
「裏口のほうでならいいんじゃない、店長には私がそうしたいって言ったことにするから」
乾ききっている真実ちゃんの唇がゆっくりと開かれる。矛盾していると思いながら、不思議と目の前の真実ちゃんという人間を見放せない理由が明確になった気がして、私は急いで触れた手を離した。
青いプランターのなかで育てていためだかの容器が坂田さんの手でひっくり返されたのは、それから一ヶ月と二日経った朝のことだった。ここ数日続いていた雨がようやく落ちついて、水たまりにきらきらと光が反射するような朝。ああ、癇癪のせいだ、と一瞬にして状況を理解できる自分が冷静なようにも残酷なようにも思えた。
「坂田さん」
「ん」
「あれ、私のめだか」
「うん」
「なんで」
「んー、ごめん。なんか自由に見えてうざかったから」
「なにそれ」
「だからごめんって。ていうか、新島さんってそういうことに怒るタイプなんだね」
「どういう意味、ですか」
「真実ちゃんみたいな感情そのままに生きてるタイプのひとを見下しながら冷静に順調にあたし生きてますみたいな雰囲気がいいなって思ってたから」
「まあ実際のとこ、俺みたいな人間に寄りかかってくれるひと、新島さんみたいな人しかいないしね」
「また飼いたいなら、ホームセンターでも今日行く?」
坂田さんの口から平坦なリズムで漏れる言葉は、その意味と温度が一致していないものばかりだった。私は不思議と自分の頬が引き攣っていることに気がつく。ぴくりとも動かない三匹のめだか。コンクリートの上で、もともとそうだったみたいに動かないめだか。
「さーやかさーん、てんちょー、おはよーございまーす」
こちらに近づいてくる足音と声。ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱたぱ、た。明るかったその響きは、私の中でゆるやかに痛みを伴って、そして止まった。
「え。うそ」
背中越しに聞こえる、聞き慣れた乾いた声は震えていた。鼻から息を吸って、吐く。それだけのことがこんなにも今は、難しい。
「ねえ、ころしたの? それとも、事故?」
「真実ちゃん」
「ねえ、ねえ、なんで」
「真実ちゃん、聞いて」
「いや。聞きたくない。どうしてこんなことしたの」
私は振り向いて、その場でしゃがみ込んでいる真実ちゃんと同じ体勢になった。下を向いて耳をふさぎこむ彼女の顔を強引に両手で持ち上げる。鼻水とよだれでぐちゃぐちゃになっていく顔はとっくに崩れていて、やっぱり整っていない。べたつく液体が私の細い指を濡らしていく。
「私、真実ちゃんがとてもきらい。きらいだし、すきじゃないし、むかつくし、いらつく。だけど」
「そういうところが、いちばん、羨ましいし、すきなんだと思う」
今にも消えてしまいそうな声で、いみわかんないし、と大量の涙をこぼす真実ちゃんを抱きしめている私は、彼女よりずっと不均衡だ。彼女を突き放したくなったり、こちらに引き寄せたくなったり。無遠慮で無神経で、そういうところが苦手なのに、変に純粋なせいで優しくしたくなってしまうところも。
「めだか、しんじゃった」
「あたしのめだか」
ぽろぽろと流れていく真実ちゃんの涙がどこまでも透き通っているせいで、私はまた呼吸するのが苦しくなっていく。いますぐに坂田さんと別れることも、目の前のめだかを生き返らせることも、私にはできない。どれもこれも、真四角の箱には綺麗にはまってくれない、歪な形をしたパーツばかりが残っている。私は乱れている彼女の髪にそっと手のひらを乗せた。
ひくり、ひく。ぴくり。ぴく。
肩を揺らす真実ちゃんみたいに、水のない世界で必死に息をしようとしためだかのことを想像する。
「なんで真実ちゃんが泣いてんの」
坂田さんの声がした瞬間、私は近くに転がっていた青いプランターを咄嗟に手に取る。
──こうやってきれーに服がならんでんの見てると、ぐちゃぐちゃに壊したくなりません?
──均等に揃えられてるものとか、綺麗に整ってる状態が好きなんだと思う。
「もう生き返らないからです」
大きく振りかぶった私の背後、自分の身体のなかで芽を出した真実ちゃんの一部が激しく叫ぶ声が聞こえた。