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2024/05/26 雑記「ラバーダックのまばたき」


 水のにおいで目が覚めた。部屋の中は薄青く、窓際は白んでいる。足の裏がすうっとするし、ベランダの手すりからはぷつぷつと音が聞こえる。外では雨が降っていて、それなのに私は窓を閉めていなかったのだった。

 おまけに、私はカーテンさえも中途半端に開けたままだった。私の部屋は青い遮光カーテンとレースのカーテンを二重にかけている。眠る前に遮光カーテンを半分くらい開けっぱなしにしていると、今のように青くて白い空間になるというわけだ。


 この数日間、引っ越しの荷造りをしている。自分の持っているものがいかに少ないかということと、少ないくせに、本はとても多いということに気付かされた。もう4箱の段ボールが本で一杯になっている。(この他にも、2箱分を古本として売った。)

 もう全ての本棚を空にしてしまえばいいのに、それではなんだか落ち着かず、恐らく引っ越しまでには読まないであろう本を棚に並べてある。村上春樹『街とその不確かな壁』朝井リョウ『正欲』江國香織『いくつもの週末』。


 ここではないどこかに行って落ち着きたい。平らかになりたい、と闇雲に想像する日々がしばらく続いていた。その「ここではないどこか」は、何となく今の地点とは地続きではない「ちょっと違う場所のどこか」と考えていたけれど、「今の地点と地続きのどこか」まで進む覚悟を決めた方がいいと人から言ってもらい、少しくらい自分のことを信じてみようと思った。私にしか見ることのできない「特別などこか」が発生するかもしれない。

日記 4月某日

すごく元気 全てのものが鮮やかで美しい
これはようやく心が勝手な乱高下から解放されたからかと思う
でも本当のところ、乱高下に陥る前の自分の感覚が思い出せない この鮮やかさも一時的な上昇だろうと思うとそんな気がしてくる 

自分で自分の知覚を疑っているような気がする

いつか 自分のそばに自分の知覚を検算してくれる人が必要かもしれない 

それでもとても元気でいい日々が続いている 嬉しい

 ただ、こんな風に、たった2ヶ月前の私が私自身のことを疑っているので、自分を信じるというのは易しいことではない。が、他人に信じてもらう(=私は人から信じられているのだと信じることができる)というのはもっと大変なので、まずは自分から、と思う。

 ちなみに、日記を書き始めてから数年が経っている。元々は体調、仕事、学校を休んだ日、学んだことの記録という事務的なもので、必要な時に適切な情報を取り出すために書いていた。

日記 某日
14時起床 学校を休んだ 

昼:コーヒー ドーナツ トマト 
夜:米 トマト 納豆

元気 朝少しだけ目が覚めた 道端にハンカチが落ちていたのを見た、柄は忘れた 洗濯機を回した ごみ捨てもした •••(続)

 この最後の方に連なっている短文があと何十行も、1日分細かく記されていた。今思うとどうしてこんなに細かく記録していたのだろうと心配になるほどの丁寧さだった。わずかな心の動きも言葉にしてあった。パラパラと読んでみると、毎日3000字程度の記録をしていた時期もある。恐らく、書くことで自分の線を保っていたのだと思う。言い換えるなら、自分で自分を指差し点検していた。私のことは私がいちばんよく分かっているという自信があったし、私のことは私がいちばんよく分かっていなければならないと思っていた。

 それから数年経って、それが間違っているということに気付いた。認知の歪みというと何だか難しくなるけれど、考え方の癖、善悪の基準、心の余裕の有無。そういうものがあれこれ上手く噛み合っていなかった。今、気付くことができてよかったと思う。


 私は、あらゆる物事において、時間が解決してくれるから大丈夫だと思えるようになった。時間が解決してくれるということを心から信じる、つまり、時間に身を委ねる、ということができるようになったのは、「時間が解決してくれた」という実感を得た日からだ。それはほとんどつい最近のことで、それは私を随分生きやすくしてくれた。

 そして、物事を0か100で考えなくていいということも少しずつ分かってきた。今すぐに決めなくてもいい、決められないままのことがあってもそのまま生きていていい、いつか分かって決められるようになるから、と思うようになった。