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お天気ロード

 家の前でクルマの止まる音がした。誰か来たのかなと思ったら、幼稚園の頃からの友人、桑田孝夫である。
「よう、むぅにぃ」
「クルマで来たってことは、どこか連れてってくれるの?」わたしは聞いた。
「連れてくっていうか、ちょっと付き合ってくれねえ?」
「どこへ?」
「洗車」桑田はそう答える。なるほど、5年乗っているという黒のフォレスターは、ホコリや泥で相当に汚れていた。もしかしたら、買ってから1度も洗ったことがないのではないか、そう疑いたくなる。
「ということは、お天気ロードかぁ」
「うん。おれ、あの道初めてだから、ナビ頼むよ」桑田が頼む。
「いいよ。志茂田と何回か走ったことあるし」わたしは請け負った。

 お天気ロードは、町を出て高原に向かう途中にある。山間からの風が入り組んだ地形を縫って下りてくるため、複雑な気候を作っていた。
 わたし達はクルマに乗り込むと、さっそく高原方面へ向かう。
「こっちのほうはあんま行かねえから、さっぱりだ。カーナビも、あの辺りだけぽっかり情報が抜けてるんだよな」ハンドルを握りながら桑田が言った。
 桑田の言う通り、お天気ロードに差しかかると、GPSもコンパスも効かなくなる。一説によると、地下深くに埋もれた磁鉄鉱の影響だという。
「大丈夫。その代わり、標識がうるさいほど立ってるんだから。見落とさなければ、道に迷ったりはしないよ」
「道に迷ったって、ぐるっと回ってまた戻って来りゃあいいだけなんだが、道順って大事だろ? おれ、教習所でもコースが中々覚えられなくってな」半ば、懐かしむように話すのだった。

 町を出ると、しばらくの間、ただ真っ直ぐな道が続く。片側2車線の広い道路で、一般道路にもかかわらず、まるで高速道路のようにビュンビュンと流れていた。
「こういう道はいいよなっ。スカッとする」桑田が弾んだ声を出す。
「でも、60キロ以下で走るところでしょ? パトカーに捕まったりしない?」わたしは心配した。
「ばか。みんな、こんなスピード出して走ってるんだぞ。このクルマだけそんなトロトロ走ってたりしたら、追突されちまうって」と桑田。
 見回しても、制限速度で走っている者など1台もなかった。それどころか、空いている車線を利用して、わたし達を追い抜いていくクルマさえある。
「クルマ専用道路にして、制限速度を上げちゃえばいいのにね」
「まったくだぜ。もっとも、それで有料化されたんじゃかなわねえがな」桑田もうなずいた。「ここらへんな、たまーに、ネズミ取りやってんだ。こんな流れている時間はいいが、単独で走ってるとやばい」

 「ネズミ取り」というのは、スピード違反の取り締まりのことだ。それも、わかるようにやるのではなく、物陰に隠れてこっそりと測る。こちらがそのことに気付いたときには遅く、とっくに速度を測り終えていて、赤燈を点滅させながら追いかけてくるのだ。
「なんで、わからないようにやるんだろう。『取締中』って書いた看板でも立てて、遠くからわかるようにしておけば、みんなゆっくり走ると思うんだけどなぁ」わたしはつぶやいた。
「ばーか。あいつら警官は、1台でも多く検挙したいだけなんだって。なんでかわかるか? 罰則金が取れるからだ。つまり、少しでも稼ぎたいんだな。警官それぞれにノルマがあるっていうしな」
「えー、なんか、ずるい」思わず口をつく。この道にしたって、わざわざスピードを出したくなるように作られている気がしてならなかった。そのいっぽうで、「60キロ以下で走れ」と言う。
 あげく、ルールを守らないと免許に加点され、罰則金まで持って行かれるなんて。

「そんなもんなんだよ、日本の道路事情っつうのは」悟りきったような口調で吐き出す桑田。
 そうこうしているうちに、「お天気ロードへようこそ!」という看板が見えてきた。
「いよいよだな。しっかり、案内頼むな、むぅにぃ」桑田が言う。
「まかせといて」わたしは自信満々に答えた。
 看板をくぐり抜けると、ほどなくして「朝霧平野」という標識が現れる。
「この先、5キロばかり真っ直ぐね」わたしは指示をする。
「オッケー」
 道路のずっと向こうは、霧で霞んでいる。わたしはダッシュ・ボードの時計を見た。10時を少し回ったところである。まだ、朝の時間帯だ。
「11時までは霧が晴れないからね、安全運転でお願い」
「おう。ライトも付けておくよ」

 次の標識は、「直進、雷山。右折、雨畑」とある。
「2キロ走ると分かれ道があるから、右に行って」とわたし。
「よっしゃ」
 霧が唐突に切れ、百メートルくらい先に、右折を案内する青い標識を確認する。
「あそこを右だな」曲がった先は、バケツの水を引っ繰り返したような雨が降っていた。
 右折レーンに移ると、対向車をやり過ごして速やかに曲がった。フロントガラスはたちまち、雨滴で視界が遮られてしまう。桑田は、急いでワイパーのスイッチに指を伸ばした。
「凄まじい雨だな」
「でも、これでクルマのホコリとか洗い流せるよね」
 洗車をするときはまず、表面の汚れを水で流すものなのだ。
「で、この雨畑をどれくらい走らなきゃならないんだ?」桑田が聞いてくる。
「ここはすぐ。ほら、雨足を透かして向こう側、谷に虹が架かってるのが見えてるじゃん」正面を指さした。

 雨と晴れとのちょうど境に、「ここより虹の谷」という案内板が立っていた。雨の降り注ぐ側は、塗装が剥げかけている。
「晴れきってるってわけじゃないんだな」虹の谷の駐車場にクルマを入れ、わたし達は外へ出た。
「日が照っていたら、塗ったそばからワックスが乾いちゃうしね」
 駐車場には数台のクルマが駐まっていて、それぞれワックスがけに励んでいる。
「よーし、塗るの手伝ってくれ。ちゃっちゃとやっちまおう」後部シートから、ワックス、それと2人分のスポンジを出してきた。
 さっきの激しい雨で、ボディはだいぶきれいになっている。そこにワックスを塗り込んでいくと、さらに光沢が増していった。
「やっぱ、ぴかぴかのクルマは気持ちいいね」磨いたところが鏡のように仕上がるのを見て、わたしはうれしくなる。
「次は乾燥だな」桑田は額の汗を拭った。

 再びクルマに乗り、駐車場兼ワックス塗り場を出る。
「3キロ先で左折して」わたしは言った。「『緑風台』ってところに出るから、そこを道なりに走るんだよ」
「雨、曇りときて、今度は風か。ワックスがすっかり乾いたら、あとは拭き取りだけだな」
 緑風台はその名前の通り、始終、風が吹いていた。
「そよ風だったり、ピュウッと強く吹いたりと、これが扇風機なら、飽きの来ない風だよね」これはわたしの感想だ。夏場、昼寝の際に使っていた首振り扇風機は、ただただ退屈なばかりだった。
「むぅにぃ、今日は付き合ってくれてサンキューな。おれ1人じゃ、絶対、どこかで間違えてたぜ。雨に濡らす前にワックスなんかかけちまったら、それこそキズだらけになってたろうしよ。こんど、ステーキでも奢るから」

「やったぁっ!」わたしは舞い上がってしまう。。そのため、最後の最後で、道を間違えた。
 緑風台を抜けるのに、右へ行かなくてはならないところを、
「左に曲がって」
 と言ってしまったのだ。
「左でいいんだな?」桑田が念を押す。
「うん」わたしは力強くうなずいた。
 その先、「飛鳥砂丘」と書いてあるのにもかかわらず。

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