情けは人のためならず
歩行者用信号が点滅を始めた。おばあさんはまだ、歩道の真ん中だ。腰が曲がり、杖をついている。
見かねて、横断歩道まで走っていった。
「おばあちゃん、手を引いてあげるから、一緒に渡ろう?」わたしは手を差しのべる。
「おお、こりゃご親切にどうも、どうも」おばあさんは顔をしわくちゃにして、にっこり笑った。
反対側まで送り届けてあげると、わたしを見上げて言う。
「ご親切にしてくだすって、ほんとにありがとうねえ」
「いいえ、いいんです。どうせ、暇だったので」わたしは照れながら答えた。
「情けは人のためならず、昔の人はそう言ったもんだよ。おまえさんは、その意味を知ってなさるかい?」おばあさんが言う。
さては、引っ掛け問題だな、とわたしは思った。情けをかけるのは、その人のためにならない、そう勘違いしている人が多いのだ。
もちろん、わたしは正しい意味を知っていた。
「ええ、巡り巡って、いいことが自分に返ってくるってことですよね」
「うんうん、わかってなさるか。そうか、そうか」おばあさんは満足そうにうなずく。手に提げた巾着をほどくと、中から赤い小石を取りだした。「この石をおまえさんにやろう」
「なんです、この石は?」わたしは聞いた。よく磨かれてきれいだが、河原に行けばごろごろとしていそうである。
「よおくなでるんだよ。丁寧にな」おばあさんは言った。
言われた通り、赤い小石を何度も手でなで回す。ドラマの場面が切り替わるように、視点がぱっと変わった。
わたしはおばあさんだった。さっきまでわたしだった相手に向かって、こう言っている。
「そう、気持ちを込めてなでるんだ。すると石は、おまえさんの意識を別の自分へと、どんどん飛ばしていってくれるから」
また、場面が変わる。今度はコンビニの店員だった。客が商品の入ったカゴをレジへと持ってくる。愛想笑いを浮かべながら会計をし、お金を受けとってお釣りを渡す。
場面が変わり、トラックの運転をしている。わたしは運送会社のドライバーだ。退屈な高速道路を、北へ向かってもくもくと走らせている。
そしてまた、場面が変わる。
単純に視点が変わるのではない。わたし自身が、別の人間にそっくり入れ替わってしまうのだ。他人に成り代わっている間は、わたしはその人そのものだった。過去の思いも、今現在の心の有り様までも、すべてがその人間である。
「例えてみれば、真っ暗闇の中で、そこだけ光が当たっているかのよう」わたしはつぶやいた。いつの間にか、もとの自分に戻っている。
「そうだねえ、そんなものだねえ」おばあさんがうんうん、とうなずく。
「なんだったんですか?」何百、何千、あるいは何億だろうか、わたしはたくさんの人を「体験」してきたところだった。
「いま、おまえさんが言った通りだよ」とおばあさん。「この世に生きる誰も彼も、みんなおまえさんなのさ。ほれ、おまえさんに『光が当たっている』わけさね。だから、自分は1人だけだと思うんだろう」
頭の中にイメージが浮かんだ。
真っ暗な舞台に、たくさんの出演者が並んでいる。そこへスポットライトが差し、1人の役者を浮かび上がらせる。観客は、舞台に立っているのはその役者だけだと思う。すると、スポットライトは消え、今度は別の役者を主役に選ぶ。
スポットライトの中の役者、それが自我というものなのか、とわたしは気づく。他人などという存在はなく、彼らは舞台袖で出番を待つ出演者にすぎない。
「ことわざの本当の意味、わかったような気がします」わたしはおばあさんにそう告げる。
「そうかい、そうかい」おばあさんは微笑んだ。
この世には自分も他人もない。親切にするというのは、自分に優しく接しているのと同じことである。
1つ成長した気持ちがした。これからは、もっと思いやりのある行動をしよう。結局、自分をいたわっていることになるのだから。
つまり、情けは人のためならず、だ。
おばあさんと別れたあと、わたしはスーパーに寄って買い物をした。
レジで順番を待っていると、わずかな隙間をついておばさんが割り込んでくる。
「あの、並んでるんですけど……」わたしが文句を言うと、じろっと睨まれた。
「うそっ。並んでなんかなかったじゃない。あたし、ちゃんと見て知ってるんだから。あんたこそ、後に並びなさいよっ」
まともに話も聞いてもらえない。わたしはあきらめて、おばさんの後についた。
内心、腹が立って仕方がない。
つまり、わたしは自分に対して怒っているのだった。
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