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台風が来た

 天気予報によれば、昼過ぎ頃、勢力の強い台風が日本列島を直撃するという。まだ晴れているが、確かに風が出てきている。
「洗濯物だけは、取り込んでおかなきゃ」
 ベランダに出て、干してある衣類やバスタオルをカゴに放り込む。遠く南の空に、真っ黒な妖しい雲が湧いていた。
 居間でテレビを見ながらくつろいでいると、風の音が次第に大きくなってくる。低い唸りに混じって、時折、何かが通りを転げていくのが聞こえた。サッシや玄関のドアも、ガタガタと騒がしい。
「まだ昼前だっていうのに、もうこんな荒れてる。相当大きな台風なんだなぁ」少し心配になり、お笑い番組から天気情報をやっているチャンネルへと変えた。

「大型で非常に発達した台風25号は、現在も勢力を増しながら台湾沖を北上しています。中心気圧は860ヘクトパスカル、最大風速60メートルです。沖縄本島へは、本日午後0時過ぎに上陸する見通しです。その後、ゆっくりと北へ進み、関東地方へは午後1時過ぎに……」
 風速60メートルがどれほどのものかまるでピンと来ないが、予報官の深刻そうな口ぶりから、「やばそう」な雰囲気を感じる。
 ふと、明日の朝に食べる分の食パンを切らせていることを思い出した。
「どうしよう。雨が降り出さないうち、スーパーへ買い物に行こうか。それとも、明日は喫茶店でモーニングにしようかな」
 窓の外を覗いてみる。風が交通標識を揺らしていたけれど、まだ青空が見え、陽が差していた。
「行っちゃおう。ほかにも、買いたい物があるし」
 エコバッグを引っつかんでスニーカーを履く。自転車は無理そうなので、徒歩で行くことにした。それでも、距離にして10分とかからない。

 買い物を終えて外に出てみると、すっかり雲に覆われ真っ暗だった。すでに暴風で、置きっ放しのカートが右へ左へと独りでに走り回っている。
 どうしよう、と見ている目の前で、ザンッと雨が降ってきた。落ちてきたかと思うと、たちまち横殴りになる。あっという間に、全身びしょ濡れとなってしまった。
 わたしは、慌てて店の中へと逃げ込む。
「まさか、こんな早く降り出すなんて」ハンカチで顔や体を拭きながら途方に暮れてしまう。壁の時計を見上げると、きっかり午後1時だった。買い物に夢中で、時間が経つのを忘れてしまったのだ。
 見回すと、わたし以外の客はとっくにいない。レジ係が、ポス・システムを閉め始めている。
「お客様、大変に申し訳ございませんが、大型台風の影響で、当店は間もなく、閉店とさせていただきます……」店長が頭を下げながら近づいてきた。

「そうなんですか、わかりました」仕方なく、店を出て行こうとする。
「あのう、今日はおクルマじゃないんですか?」そう、尋ねられた。
「ええ、歩いてきました」
「あ、それでしたら、しばらく、警備室の方で休まれていってはどうです? 店の方は閉めますが、警備は常駐しますので」
「いいんですか?」ホッとするわたし。外では、駐まっているクルマまで風でギシギシと揺れ、叩きつけるような雨は10メートル先の見通しもつかない。この中を歩いていくなど、正気の沙汰とは思えなかった。
「もちろんです、いつも来ていただいている大切なお客様ですから。さ、こちらへどうぞ」店長はにこやかに言うと、先に立って、わたしを店の奥へと案内する。

 「スタッフ・ルーム」と書かれた扉の向こうは、配管が丸見えの、いわば「舞台裏」だった。一般客がここへ足を踏み入れることなど、まずない。なんだか、得をした気がした。
「少々、見苦しいところですが、どうぞご容赦下さい」店長は申し訳なさそうに断りを入れる。
「こんなふうになってたんですね。ちょっと、不思議な感じがします」わたしは、きょろきょろと見回しながら言った。
「こちらが、警備室になっております」ノックをして、ドアを開ける。「中村さん、すまないけど、台風が過ぎるまで、こちらのお客様を休ませてあげてもらえないかな」
 6畳ほどの殺風景な部屋には、ソファーとテーブル、机があるきり。
 そのソファーには、60過ぎのおじさんが掛けていて、卓上テレビを眺めていた。
「おう、いいともよ。さ、隣に座るといい」中村さんは愛想よく、わたしを手招きする。
 わたしは空いている席に腰を下ろした。

「じゃあ、あとはよろしく頼むね」店長は警備員の中村さんに言う。わたしに向かっては、「では、ゆっくりしていって下さい」と会釈をして、出て行った。
「いやあ、大変なときに来ちまったねえ。ここから遠いのかい?」中村さんが聞く。
「歩いて、10分くらいなんです」
「へえっ、そりゃあ歩くね。クルマはないの?」
「免許も持ってないんです。なんだか、怖くって」
「そうかい、そうかい。ま、危ないもんなあ、クルマは。都会なんだし、乗らなくたって不自由しないよ」わたしに気を使ってくれる。
 内心では、免許を取っておけばよかったなぁ、と後悔しているところだった。この荒れた天気の中、とっくに帰り着いている頃だ。それどころか、雨が降る前には、買い物を終えて戸締まりをしていたに違いない。

「テレビだと、夕方4時までは暴風雨だっていうな。ま、ゆっくり待つとしようや」
 1つだけある小さな窓からは、外の様子がよく見えた。いつも行き来する通りに面している。
「外、夜みたいに暗いですね」わたしは言った。
「だなあ、こんな空、おれも初めて見るぜ」中村さんが窓に立つ。「あ、来たよ、ほら。見てみな、あれが台風25号だねえ」
「えっ、どれですか?」わたしもソファーから立ち上がる。
 窓ガラスに顔をくっつけて外を覗いた。吹き荒れる雨の向こうに、黒くて巨大な柱が見える。
「あれだよ、あの竜巻みてえなの。1本足で、腕が何十本もあるのがわかるかい?」
 柱に見えるのは太い毛むくじゃらな足だった。胴体はなく、唐突に無数の腕が生えている。

「初めて見ますが、恐ろしい姿をしてるんですねえ。顔はないんですか?」
「顔かい? もちろん、あるともさ。ずっと上にさ。ほれ、よくよく見てみな。ぐるんぐるんと、雲が渦を巻いているだろ。ちょうど、あの辺りだ」 
 中村さんに言われたほうを見上げると、雨雲の隙間から見え隠れするものがある。長い髪を振り乱し、怒り狂ったような形相をしていた。
「うわ、1つ目のオニだ!」思わず、叫び声をあげてしまう。
「な、怖いだろ。そうなんだ、だから台風ってのは、おっかねえんだ」中村さんは、おお、嫌だというように、顔をぶるるっと振るわせた。

 台風25号は、その醜い足で町中を蹴り散らかし、たくさんの腕でもって、街路樹や信号機を揺さぶる。
 何よりも恐ろしかったのは、その1つ目で、1軒1軒の家の窓を覗いて回る様子だった。
 ついに、わたし達のいる場所までやって来て、その真っ赤な瞳を窓に押し付ける。
「き、来たーっ! なんまんだぶ、なんまんだぶ――」中村さんは尻餅をついてソファーに転がった。そのまま頭を抱えてぶつぶつ祈りだす。
 わたしは突っ立っったまま呆然とし、ガタガタと震えながら窓を見つめ続けていた。

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