真夜中に窓を引っ掻くもの
中谷美枝子が、ついに独り暮らしデビューを果たした。
雑司ヶ谷の閑静な住宅街で、古いけれど、こざっぱりとしたモルタルのアパートだ。
「ちょっと歩けば池袋だし、何より家賃が安くて助かるんだよね」当初、中谷は大喜びだった。
ところが1週間もしないうちにわたしのところへやって来て、しばらく泊めてくれと言う。
「どうしたっていうのさ」わたしは聞いた。
「なんだかあの部屋、気味悪くって」
「隣に変質者が住んでるとか?」
「ううん、そうじゃなくって。そういう、原因がはっきりしてるのなら、あたし、あんま怖いとは思わないんだよね」
「まさか、お化けが出たんじゃ……。やっぱりね、どうりで安いと思ったんだ。だって、あの場所で2DKなのに、月3万8千円なんて、どう考えたっておかしいもん」わたしはまくしたてた。そもそも、中谷はものごとをろくすぽ考えもせずにまとめてしまう。幼稚園の頃からの悪い癖だ。
むふんっ、と中谷は鼻を鳴らした。
「お化けが出た、だなんてひと言もいってないでしょ? あたし、そういうの信じてないし」
「じゃ、いったい、なんなの?」
「それがね、深夜2時過ぎになると、台所の窓の外で、何かが引っ掻くような音がするの。それも、毎晩必ず!」そう言って、震えを押さえでもするかのように、自分の両肩を抱きしめる。
「なあんだ、そんなことか」わたしは笑った。
「何がおかしいの?」ムッとした顔をする。
「だって、ネコに決まってるじゃん。流しに食べ残しとか置いてるんでしょ。匂いに惹かれて寄って来たに決まってる」
中谷はうーん、と考える様子を見せた。
「そうかなぁ、窓は閉め切ってるから、食べ残しがあったとしても、匂いなんか漏れるはずないんだけど……」
「だったら、確かめてみたらいいじゃん。ネコだってわかれば、安心して寝られるよ」
「もし、ネコじゃなかったら? それこそ怖いじゃない。ねえ、あんた、今晩うちに泊まりに来ない? 一緒に確かめてくれないかなあ」
「えー」わたしは、横目でラックの上を見る。明日が返却日のDVDが3枚、積み重ねられたままである。
「いいでしょ? 言い出しっぺなんだし。それに、どうせネコなんだから」中谷が詰め寄る。言い出したら、聞かないからなあ。
「わかった。一晩だけだからねっ」明日1日で3枚を観るのはきついぞ。あーあ、延長決定か。
「泊まってあげる」代わりに、夕飯はごちそうしてもらうことになった
「今日はカレーだよ」中谷に教えられるまでもなく、すでに部屋中、カレーの匂いがプンプンしていた。
「ニンジンはよけてくれる?」わたしは念を押す。言っておかないと、わかっていながらどっさり盛るに違いない。
「あんた……ほんとにお子ちゃまだね」
「好き嫌いの1つくらい、誰にだってあると思う」わたしは言い返した。
「ピーマンは? インゲンとグリーンピース、あ、それにアスパラガスはどうだっけ?」
どれもわたしの苦手なものばかりだった。これだから、幼なじみというのはやりにくい。
タオルケット1枚だけかけて寝ていると、肩を激しく揺すられた。
「……どうしたの?」眠い目をこすりながら、わたしは起きあがる。
「しっ。ほら、聞こえるでしょ? 台所の窓を誰かが引っ掻いてる」こわばった表情で中谷がささやいた。
わたしは耳を傾ける。
確かに、窓ガラスの向こうからカリカリという音がしていた。
「調べに行こうっ」わたしは立ちあがった。2人並んで台所に向かう。
薄暗い台所は、梨地ガラスの窓越しに廊下の蛍光灯の光がぼーっと射していた。
わたし達の見つめる中、窓に無数の小さな白い手が現れた。ぺた、ぺた、っとガラスの外側をなで、爪を立てながら滑り落ちていく。その度に、カリ、カリ、と引っ掻くような音を立てた。
「ひっ!」中谷が喉の奥から変な声を漏らす。わたしも、口の中がからからに乾いていくのを感じた。
「あれ何?」やっとのことで、中谷は言った。暗がりにいてさえ、顔面が蒼白なのがわかる。
「幽霊なのかなあ、やっぱり」
怖くてたまらなかったが、反面、超常現象に立ち会えるなんて滅多にない機会だぞ、と好奇心に駆られた。
そおーっと玄関まで降りていって、ドアノブに手をかける。手だけかなのか、それともちゃんと体もついているのか、知りたくてたまらなかった。
わたしのパジャマの裾を引っ張りながら、中谷が恐ろしげに首を横に振っている。
けれど構わず、ガチャッとドアを開け放つ。
一瞬、窓の下に白っぽい塊が見えたけれど、泡を食ったように逃げていった。
中谷によれば、それ以来、窓を引っ掻く音はしなくなったという。
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