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ゾウのように大きなカブトムシ

 雑木林で、大きなカブトムシを見つけた。
「あのカブトムシ、ずいぶんと大きいね!」わたしは思わず叫ぶ。
「あー、あれかぁ。あれね。きっと、『ゾウカブトムシ』ってやつよ」中谷美枝子はそう言ったが、たぶん、その場で思いついたのだろう。
 わたしもそう名付けたと思う。生い茂る木々の間から、立派なツノを上下に揺らし、のっしのっしと歩いている。確かにゾウのように大きかった。
「よーし、あいつを捕まえて飼うことにするよっ」わたしは林に向かう。
「よしなって。カブトムシは、夏の間しか生きられないんだよ? かわいそうじゃない」
 中谷は止めたがわたしは聞かず、ゾウカブトムシを家まで引っ張っていった。

 大きすぎて部屋に入りきれないので、ツノに縄を括りつけ、庭で飼うことにした。
 ブロック塀から上半分が丸見えなので、道ゆく人はたまげた顔をして通り過ぎる。
「こりゃあ、ゾウなのかね、それともカブトムシなのかね?」3人に1人は、そんなことを聞きにわざわざやって来た。
 無理もない。ゾウのように大きなカブトムシなのだ。
 わたしは画用紙にマジックででかでかと、「ここには、『ゾウのように大きなゾウカブトムシ』がいます」と書いて、塀の外に貼った。
 それを見た通行人は、
「ははあ、ゾウカブトムシか。なるほど、なるほど。そいつはもっともだ」とうなずくのだった。

 1キログラム入りの砂糖をバケツいっぱいの水で溶いて、ゾウカブトムシに持って行く。
 真っ黒い目をキラキラと輝かせながら、夢中で吸い始める。ものの5分と経たないうちに、砂糖水は空っぽだ。
「よしよし、たっぷり飲んだね。あまり飲みすぎると毒だから、また明日だよ」
 そう言いながら、ゾウカブトムシのツノの付け根をなでてやる。ゾウカブトムシは、返事でもするかのようにギィギィと節を鳴らした。

 翌朝、庭に出てみると、がらんどうになった外骨格が脱ぎ捨てられているのを見つけた。
 その傍らには、一回り小さくなったゾウカブトムシがうずくまっている。
「君は成虫のくせに、まだ脱皮なんかしてるのか。変なカブトムシだなぁ」
 ゾウカブトムシは、恥ずかしそうに角をぶるんっと振るわせた。
 バケツに作ってきた砂糖水を、今日はいくらか残してしまった。体が小さくなった分、飲む量も少なくなったようだ。

 次の日も、ゾウカブトムシは脱皮をした。さらに小さくなったので、砂糖水は半分だけ作る。
「ふつう、脱皮をする度に大きくなるもんなんだけどなぁ」わたしはゾウカブトをなでながら言った。以前は届かなかった背中に楽々と手が届く。
 ゾウカブトは日を追う毎に脱皮を繰り返し、ますます小さくなっていった。
 2週間もたった頃には、仔犬ほどの大きさでしかなくなり、「ゾウカブトムシ」という名前もはばかられた。
 表に貼り出してあった画用紙の「ゾウカブトムシ」を棒線で消して、その下に「チワワカブトムシ」と書き直す。
「あーあ、がっかりだなぁ。あんなに大きかったのに……」わたしは溜め息をついた。

 チワワカブトムシの脱皮は止まらず、翌々日にはとうとう、どこにでもいる、ふつうのカブトムシになってしまった。
 塀の画用紙は、「どこにでもいるふつうのカブトムシ」と書き換える。
 バケツで砂糖水を与えると溺れてしまうので、コーヒーミルクの空き容器に垂らして飲ませた。いくらもないのに、それすら飲み残してしまう。
「君、ほんとに小さくなっちゃったなぁ。あと1回、皮を脱いだら、すっかり消えてしまうかもしれないね」自分で言って、思わずどきっとした。
 8月も今日で終わり。中谷が言っていたっけ。カブトムシは夏の間しか生きていられないんだ、って。

 わたしは、「どこにでもいるふつうのカブトムシ」をそっと両手で包んで、雑木林へ向かった。
 一番たくさん樹液を垂らしているクヌギの幹に、カブトムシをしがみつかせる。
「この辺りだったよね、君と出会ったのは」カブトムシに話しかけた。「夏がもっと長かったらなぁ。夏がずっと続いて、いつまでも終わらなければいいのに。そうしたら、一緒にいられたはずだよね? そうだよねっ?」
 
 明くる朝早く、林を訪れてみる。
 クヌギの木の下に、カブトムシの抜け殻がぽつんと転がっていた。
 とぼとぼと家に戻る。塀には、まだ画用紙が貼ったままだ。
 剥がそうと手を伸ばし、考え直してマジックを取ってくる。何度も消してあって、あと1行しか余白がなかったが、それで十分だった。

 「ここには、『もう、どこにもいないカブトムシ』がいます

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