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試着室の冒険(前編)

 「この先、入るべからず」
 狭い試着室の壁に、そんな貼り紙がしてある。
「入るも何も……」そう言いつつ、わたしの手はすでに取っ手を握っていた。
 ここはショッピング・モールにある洋品店。今日は1人でトップスとボトムスの組み合わせに来ていた。
 店の隅に設置された、ファンシー・ケースのような試着室は、入り口にカーテン、壁の1面には姿見という、どこにでもあるようなボックスだ。
 その鏡に自分の姿を写していてふと気がついたのが、反対側にあるもう1つの扉だった。
「どうせ、店の壁があるだけでしょ?」わたしは扉を開けてみる。驚いたことに、真っ暗な洞窟が、ポッカリと口を開けていた。
 思わず、1歩、踏み出してしまう。たちまちツルンッと足を滑らせ、あれよあれよと言う間に、坂道を転げていった。

「あ痛たたぁっ――」尻餅をついて、ようやく止まる。どうやら、洞窟の底まで落ちたらしい。
 辺りを見回すと、ほのかに岩壁が浮かぶ。真夏の暑い盛りならさぞや涼しいと思われるが、いまはかえって暖かいくらいだ。1年を通じて、気温の変化がほとんどないのだろう。
 わたしは立ち上がると、針の先ほどに見える、試着室の明かりを見上げた。
「あそこまで這い上がるのは無理だなぁ」叫んだって聞こえそうにない。待っていればそのうち、いつまでも試着室から出てこないお客さん、ということで、探しに来てくれるだろうか。 
 ふと、以前に店員が話していたのを思い出す。
「うちの店では、お客さんのプライバシーを第一に尊重いたします。化粧室に入られても、閉店時間が来るまでは、決して決して、お呼び立ていたしたりはしません」
 まだ昼前のはずだった。閉店時間まで何時間待たされることになるのか。

「先へ進んで、別の道を探すよりないか」わたしは決心する。わざわざ入り口が作られているのだから、当然、出口だってあるはずだ。
 歩き始めて、初めて気がつく。着ている服がおかしい!
「試着したのは確か、ベージュのショートダウンとカーゴパンツだったはず」それがいつの間にか、フード付きのローブに変わっていた。厚い布地で、黒っぽい色をしている。よく見ると、胸元には大きな刺繍。紋章のようだ。
「これじゃ、まるで王室付き魔法使いだよ」
 長すぎて、半ば引きずるように歩くので、邪魔で仕方がない。脱いでしまうと、中はアンダーだけになってしまう。やむなく、このまま行くことにした。

 途中、天井が低くなっている場所があり、身をかがめなくてはならなかった。
 地下水がひっきりなくポタポタと滴り、ときには首筋にまで入り込む。そのたびに、ゾクッと背中を縮ませた。
 やっと抜けると、再び広い空間が現れる。
 すると、
「むぅにぃじゃねえか。おい、助けてくれよぉ~」と情けない声がする。
「だ、誰っ?」思わず辺りを探すが、人の気配すらしなかった。
「ここだ、ここ。お前の肩」小さいけれどやたらと甲高い。
「肩って――」顔を向けて、ギョッとした。黒光りした、大きなゴキブリが触角を盛んに振っている。
「出たっ!」慌ててはたき落とした。岩の上に落ちたところを、踏みつぶしてやろうと足を持ち上げる。
「わっ、ばか。やめろって。おれだ、桑田だっ!」すんでのところで足を止めた。
「桑田? 本当に?」言われてみれば、腐れ縁の友人、桑田孝夫のしゃべり方にそっくりだ。

「ああ、気がついたらこの洞窟に来ちまっててな。しかも、こんな姿にされていた」悲しそうに言う。
 わたしも、試着していた服が、こんな怪しげなローブに替わっていた。姿まで変わったとしても不思議ではない。
「どうしたら元に戻れそう?」わたしは聞いてみた。
「さあな。でもよ、この先を行かなきゃならねえ気がする。どっちにしたって、後戻りはできねえもんな」健気にもそう答える。あるいは、自分を鼓舞しているのかもしれなかった。
「そうだよね。絶対、奥に何かあるよ。行き着けば、誰かが説明してくれるはず」
「な、おれを肩に乗せてくれよ。こんなかっこだろ? 歩きにくくって仕方ねえ」裾から這い上がろうとする。
「えー、ゴキブリなんかやだってば」即座に、拒否した。元が知り合いだったとしても、いい気分じゃない。

「じゃあよ、そのフードん中に入れてくれよ。絶対に這い出してこないからよ」桑田は必死になって頼んだ。
 わたしは、首の後に垂らしたフードをいじる。
「フードかぁ。ほんとに上がってきたりしない?」フードの底でじっとしているのならいいか。
「ああ、約束する。入れてくれたら、ガストのステーキ、3回奢ってやる」
 その一言で、わたしは決心がついた。
「じゃあ、いいよ。裾を伝って登ってきて。首に息を吹きかけたり、ヒゲを触れたりさせないでね。条件反射ではたき落として、そのまま踏みつけちゃうかもしれないから」あらかじめ警告をしておく。
「わかった。でも、這っている間、カサカサと音がするから、耳を塞いでいてくれるか?」
 物陰から聞こえてくる、あのカサカサいう音は、確かに我慢ならなかった。言われた通り、わたしは両手を耳にギュウッと押しつける。

 準備が整うと、わたしは再び歩き出した。一見、1人のように見えるけれど、これでも連れがいる。内心、心強かった。もっとも、体裁の悪いゴキブリの姿をしていたけれど。しかも、わたしのフードに潜り込み、息を潜めているのだ。
 もしも知らない者がそばへやって来て、わたしのそのフードを覗いたなら、そしてその人が大のゴキブリ嫌いだったとしたなら、きっと腰を抜かすか、その場で飛び上がって卒倒しただろう。
「ゴキブリになった気分って、どんな感じ?」わたしは話しかけた。
「そうだなあ」フードの中から虫の鳴く声がする。「想像していたよりは、ずっと快適だぞ。こうして、触角を舐めたり、背中のハネの手入れをしたりするのはいいもんだな。どんなに暗くたって、周りに何があるか、よくわかるんだ。どうやって? なんて聞くなよ。おれだって知らねえ」
 思ったほど、落ち込んではいなかった。案外、桑田にはおあつらえ向きなのかもしれない。

 水の音がしてきた。
「地下水が流れてるのかもしれないね」わたしは言う。
「気をつけろよ、むぅにぃ。なんだか、嫌な予感がする」桑田が忠告をした。
「湿っていて、滑りやすいもんね」
「そうじゃねえ。何か潜んでるぞ。おれの触角がそう告げてる」
 サラサラと聞こえていた音は、次第に大きくなり、いまやゴウゴウ唸りを上げている。
「川の脇を歩いているよ。けっこう、幅があるね。それに、流れも急だし」直接見ることのできない桑田に報告した。
「急にかがんだりするなよ。おれなんか、そんなとこに落ちた日にゃ、あっという間に流されていっちまう」

 足場の悪い中、できるだけ平らなところを選ぶ。うっかり転びでもしたら、わたしだって川に飲まれてしまいそうだった。
 途中の岩場で一休みをする。
「喉が渇いたから、ちょっと水を飲んでいくね。屈むけど、放り出されないように、中でしっかり踏ん張っててよ」
「おう」桑田は答えた。
 岸でしゃがんだとき、目の前の水がザブンッと音を立てて跳ね上がる。しぶきの中から、何者かが現れた。
「来ることはわかっていたよっ!」相手は細身の剣を突きつけ、そう叫ぶ。革鎧で全身を固め、緑色のマントをはおっていた。そして、その顔は……。
「な、なんなのさっ。ゴキブリの次は、カエル?!」
 大きな目玉でギョロッとこちらを見据えるのは、人の身長ほどもあるカエルの剣士だった。

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