見出し画像

恐怖のピンク・ファッション

 わたしは膝を抱えて座っていた。カーテンを引き、テレビもラジオもない、がらんとした部屋で。
 
 携帯が鳴る。
 組んでいた手を数ヶ月ぶりにほどき、電話に出た。
「はい、むぅにぃ……」
「おっ、生きてたか。ここんとこ姿を見せねえから、くたばっちまったかと心配したぜ」桑田孝夫の懐かしい声が聞こえてくる。
「ずっと部屋にこもってたよ。世の中は世知辛いからね」わたしは言った。
「ばかなこと言ってねえで、外に出てこい。いつもの噴水広場で待ってるからな」
 それだけ話すと、一方的に切ってしまう。固定電話なら受話器の向こうから、ツー……と音が聞こえるのだろうが、携帯はその点クールだ。うんとも、すんともいわない。

 どっこらしょ、とわたしは立ち上がった。あんまり久しぶりに立ったものだから、この世に存在するのは安物のカーペットだけではない、ということをなかなか思い出せずにいる。
「天井って、こんなに低かったんだ」わたしはつぶやいた。空気までも違って感じられる。たかだか数十センチなのに、重く淀んだ匂いから色つきのポプリに変わったかのよう。
 洋服ダンスの扉を開け、ナフタリンの刺激臭にちょっと顔をしかめる。
 わたしは外出用の服を選んで、袖を通した。

 玄関で靴を履いて外へ出る。直射日光が重力を帯びてのしかかってきた。すっかり夏の日射しだ。
 道の向こうから、ピンク色の全身タイツを着た男がやって来る。お笑い芸人だろうか? 片手にはアタッシュ・ケースを提げ、もう片方の手でスマート・フォンを操作しながら歩いている。
 ど派手なコスチュームをのぞけば、どこにでもいそうな営業マンだった。

 大通りに出たところで、自分の目を疑う。
 道ゆく人、誰も彼もがさっきの人同様、ピンクの全身タイツ姿なのだ。
 エコ・バッグに買い物を詰め込んだ主婦、商店のオーナー、イヌを散歩させているおじいさん、子供、1人残らずピンク色である。
「これがいまのトレンドなの?! 世の中の移り変わりは激しいなあっ」呆然と見守るのだった。

 いつの時代でもそうだが、流行に乗り遅れた者は周囲から奇異な目で見られる。この雑踏の中で、わたしはまさしくそんな状況にあった。
 コットンのジーンズに、ウニクロのTシャツ、その上から麻のジャケットを羽織っている。そんなわたしに、通り過ぎる人々は無遠慮な視線を投げつけてきた。

 公園の噴水前へとやって来る。
 ここでも、ピンクの全身タイツばかりだ。辺り一面、桜でんぶをまぶしたかのような風情である。
 噴水のそばのベンチで、桑田が退屈そうに足を絡めているのを見つけた。やっぱり、ピンクに身を包んでいる。
「桑田、待った?」わたしが声をかけると、ギョッとしたような目を向けてきた。

「な、なんだ、おまえ、その格好っ!」
「えー、変かなぁ」とわたし。
「ったりめえだろ、きっしょいなっ」桑田はあからさまに嫌そうな顔をする。「どうしてこう、団体行動ができねえんだろうな、お前ってやつは。いまどき、ピンクの全身タイツを着てねえってのは、裸で外を歩いているようなもんなんだぜ」 
 わたしはドキッとして、周囲を見回した。

 遅まきながら、自分の格好が恥ずかしくてたまらなくなる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?