茶々丸!
もらわれてきた時は、両手にすっぽりと収まってしまう赤ちゃんネコだった。
「名前、なんにする?」わたしが聞くと、
「そうねぇ、チャトラだからチャコってどうかしらね」と母。
「おいおい、こいつは男の子だぞ。ほらっ」父は仔ネコを裏っ返しにして母に見せる。
「それじゃあ……」
その後、1時間近く話し合って、やっと名前が決まった。わが家に加わった新しい家族である。
せっかく付けられた名前だっが、使われたのはその1回きりで、以来、「チャチャ」としか呼ばれることはなかった。
大人になっても甘ったれなうえ、たいそうやんちゃだった。疲れを知らないのか、いつまでも遊び足らず、しかも、本気でかかってくるのでわたし達に生傷が絶える暇もない。
それもこれも、躾らしい躾をせず、ただただ甘やかしてきたからだった。
当初、ミルクの進まないチャチャを心配し、母は近所の動物病院に連れていった。
「この子は体が弱いから長生きはできないでしょう。せめて、おいしいものを好きなだけ食べさせ、たくさんかわいがってあげてください」獣医師は悲しそうに宣告した。
覚悟を決めた母は、最期のそのときまで幸せだけを与え続けようと誓ったのである。
家族であるわたし達にもその義務は課せられた。ご飯が欲しいと言えばすぐに食べさせ、ふすまやカーペットで爪を研ごうが、誰1人として叱ったりはしない。
チャチャがわがままになったのも、当たり前のことだった。
獣医の診立てとはほど遠く、チャチャはどんどん大きく、ますますパワフルになっていった。
大変な慌て者で、毎日、何かしら失敗をしでかしてはみんなをあきれさせ、いつもはらはらとさせる。
沸かしすぎた風呂を冷まそうと、ふたを半分だけ開けたままにしておけば、好奇心いっぱいにやって来て勢い余って飛び込んでしまう。
調子に乗ってタンスを上ったはいいが、壁の間の隙間に転げ落ちて助けを求めて鳴く。
立ち歩きのできるようになった幼児なみに、目が離せないのだった。
たいていのネコは虫が好きなものだけれど、チャチャは彼らがたいそう恐れていた。
夕食の支度が済んで、家族全員がテーブルについたとき、ここ数日ばかり居候をしていた大きなゴキブリが、ひょっこり姿を見せた。
「あ、ゴキブリっ!」わたしは思わず叫び、脊椎反射のようにティッシュの箱を引っ掴んで振り下ろす。見事な空振りだった。
「ほらほらっ、下に行ったよっ!」母も新聞紙を丸めて構える。
ゴキブリは何を思ったか、わざわざチャチャの鼻先へと逃げていった。
「チャチャ、捕まえちゃえっ!」とわたし。
ところが、「フギャッ」と鳴いて飛びすさり、のぞき込むわたしの頭から背中を踏み台すると、あっという間にテーブルに駆け上がった。
盛りつけられた料理も食器も、すっかりめちゃくちゃだ。
その晩は、近所のとんかつ屋で外食するはめになったっけ。
そんな手のかかるチャチャと3年ばかり過ごし、わたしは実家を出た。
独り暮らしを始めてみるとあまりに平和で、しばらくの間は極楽にでも来てしまったような思いがしたものだ。
生活に慣れてくると、あの当時のことが妙に懐かしく蘇ってくる。
朝から晩まで、チャチャのドタバタと走り回る音や、突発的にやらかす騒ぎもそう悪くはなかったぞ、と思い出されてくるのである。
久しぶりに実家へ顔を出してみた。
「あれっ、チャチャは?」わたしは言った。いつもなら、玄関をくぐるが早いか、転がるように飛び出してくるのに。
「ああ、連絡するかどうか迷ったんだけど――」母にしては歯切れが悪い。
「死んじゃったの?」
「うん、去年の末にね。直前まで、さんざっぱら遊び回っていたのに、急に静かになってさ。変だと思って見に行ったら、いつも自分が寝ているマットの上で大の字になってたの。寝てるんだ、とばかり思ってたんだけど……」
「そうなんだ、チャチャは死んじゃったのかぁ」不思議と悲しくはなかった。どうやら、母も同様らしい。
「まるで、電池でも切れたみたいにパッタリと逝っちゃったからねえ」
「チャチャらしいなぁ。ほんと、チャチャらしいよね」わたしはしみじみとそう思った。
「獣医さんは半年と持たないだろう、なんて言ってたけど、10年だものねぇ。もう、十分だったろうと思うよ」母は、手の甲をわたしに差し出し、
「ここんとこの傷、チャチャに引っ掻かれたやつだよ」
わたしも自分の手を見せる。
「これなんか、思いっきり噛まれた跡。加減てものを知らないんだからさっ」
お互いの傷を数え合いながら、ふと考えた。この傷、ずっと残るのかなあ。たぶん、残るんだろうな。消えないで欲しいよ、いつまでも、いつまでも!
茶だんすにフォトフレームが立てかけられていた。元気いっぱいだった頃のチャチャが、じっとわたしを見ている。
命名されて以来、ほとんど使われたことのない名前を、わたしは10年ぶりに口にした。
「さようならだね、茶々丸っ……」
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