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天ぷらそばをめぐる冒険

 ここは駅前のそば屋。さっき頼んだ天ぷらそばが、ちょうど運ばれてくる。
 割り箸を取って2つに裂いた。いざ、そばをつかみ取ろうとすると、たぐり寄せられでもするように、丼の底へと消えていく。
「えーっ?!」そばは、見ている間にどんどん減っていった。
「どうした、変な声を出して。お、なんだ。むぅにぃ、お前食うのが早えな」前の席に座る桑田孝夫が目を丸くする。
「違うの、そうじゃないってば。そばがひとりでになくなっちゃってるんだって」汁だけの器には、エビ天だけが悲しそうに浮いていた。
「そんなバカなことあるかい。よっぽど腹が減ってたんだな。なんなら、もう1杯お代わりをしたらどうだ」桑田は笑って取り合わない。
 おっかしいなぁ。仕方なく、わたしはエビ天をぽりぽりと囓った。

「おわっ?!」いきなり桑田が叫ぶ。
「どうしたの?」
「どうしたも、こうしたもねえ。おれのそばが減っていく! いったい、どうなってやがるっ」
 丼の真ん中に小さな渦ができて、そばがずるずると吸い込まれているところだった。
「ほーら、言ったじゃん」わたしは肩をすくめる。
「そうはさせねえっ!」残り少なくなったそばを、桑田は素手でむんずと掴む。「さあ、返しやがれ、おれのそばを」
 コシが強くしなやかなそばは、天ぷらの油も手伝って、つるりと指の間を滑り落ちていった。
 とっくにエビ天を平らげてしまった丼は、わたしのそれよりなお寂しい。
 
「くっそー、なんてこったい。どこのどいつだ、そば泥棒はっ」頭からポッポと湯気を立てながら、桑田はわめき散らす。
 ふと、その小指を見ると、銀色に光るものがあった。
「ねえ、桑田。その指……」
 それは絡みついた1本のそばだった。やけに長く、テーブルを伝って、床まで続く。
「なんだこりゃ。どこまで伸びてるんだ」
「たぐっていこうよ。どこに行き着くか、探るんだよ」わたしは言った。
「よっしゃ。むぅにぃ、お前は丼を抱えてついてこい」
 桑田はそばをたぐり、ひとかたまりになったところで、わたしの持っている丼にあける。そばは隣の客席を通って、引き戸の隙間から外へと走り、道なりにまっすぐ遙か先まで続いていた。

 わたし達はたぐっては丼にあけ、さらにたぐり、を繰り返しながら、どんどん進んだ。角を曲がり、庭先を通り、ついには大通りに架かる陸橋へとやって来た。
「ここを渡ったら、その先は駅だよ」わたしは向こう側を指差す。
「だからなんだ。どこまでだって行ってやるぞ」相当意地になっていた。こうなったら、最後まで桑田についていくよりほかはない。
 券売機で、とりあえず最低運賃の切符を買って改札をくぐる。そばは下りホームへと向かっていた。
「どこへ行くつもりだろうね?」わたしは聞く。
「知るもんか、そばに聞いてくれ」

 停車中の下り電車の開いたドアの中へ、そばはぴーんと伸びていた。すでにかなりの人数が乗り込んでいて、命綱代わりのそばを頼りに、隙間へと潜り込む。
「満員だよっ! 桑田、絶対にそばから手を離さないでねっ」もみくちゃにされながら、わたしは懸命に桑田のベルトを掴んだ。
「お、おうっ、まかせとけっ!」
 動きだし、押し合いへし合いする中、車内を進行方向に向かってもがく。
 駅で停まる度に10人ばかり降り、代わりにその倍の人数が乗り込んできた。
「く……苦しいっ」思わず音を上げてしまう。
「大丈夫か、むぅにぃ? しっかりするんだ」応える桑田の声も、息絶え絶えである。

 いくつ目かの駅で停車したとき、乗客が一斉に降り始めた。掴んで離さなかったそばも、今度は出口へと向かっている。
「助かったぁ――」わたし達は、命からがらホームへと転がり出た。
「そばの奴、なんの恨みがあって、おれ達をこんな目に遭わせるんだ」ぜいぜいと喘ぎながら桑田はぼやく。
 上り階段を仰ぎ、わたしは絶望した。すっかり消耗しきった体力では、ヒマラヤの絶壁にも等しく思える。
「少し休ませて……」わたしはしゃがみ込む。
 そんなわたしの頬を桑田は平手で打って励ます。
「寝るな! 寝たらおしまいだぞっ!」
 それでも、わたしは目を醒まさなかった。

 ハッと気がつくと、急階段を桑田に背負われて登っている最中だった。桑田は、わたしごとそばで体を縛りあげ、雪中登山さながらによじ登っていく。
 そばをたぐり寄せる両の手は、血が滲んで痛々しかった。
「桑田……」わたしは耳もとでささやく。
「じき、頂上に着くぞ。そこまで行きゃあ、あとはひたすら平地だ」
 階段を登り切った先は駅ビルの中だった。2人を縛っていたそばをほどくと、また並んで歩き始める。
「ここは飲食店街だな。さあて、次はどこへ案内してくれるのかな?」桑田は勇ましく言った。
 寿司屋、洋食屋、ラーメン屋と通り過ぎ、ついに1軒の和食店へ辿り着く。そばは、その軒先から店の奥へと入り込んでいた。

「なんだぁ、結局、そば屋じゃん」あんまりあっけないので、力が抜けそうになる。
「このそば屋だな、おれたちのそばをかっさらっていったのは」桑田はいきり立った。のれんを乱暴にかき分けると、ガララッと戸を引く。
 テーブル席に座って、うまそうにそばをすする男がいた。
「おや、桑田君、それにむぅにぃ君。奇遇ですねえ。あなた方も、ここで天ぷらそばですか?」幼なじみの志茂田ともるだ。
 そばをたぐっていくと、志茂田の丼の底につながっていた。

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