13．空の散歩

　ある日曜の朝、浩はなぜか早くに目が覚めてしまった。時計を見ると、まだ５時ちょっと過ぎ。
「もうちょっと眠っておこう」そうつぶやいて、毛布にくるまる。けれど目が冴えてしまい、まったく眠くないのだった。
　毛布をがばっとはねのけると、そのままベッドを下りる。もう、このまま起きてしまおう。
「朝の散歩もいいかもな。ちょっと、ほっつき歩いてくるか」両親は２人ともぐっすり眠っているらしく、家の中はしんと静まり返っていた。
　なんだか不思議な雰囲気だ。
　冷蔵庫からバナナを１本取り出すと、軽く腹ごしらえをする。それから自分の部屋へとって返し、普段着に着替えた。
　靴を履いている間も、家の中ではほかに物音１つない。いつもなら母が、「あんまり遅くなるんじゃないよ」とか、「クルマには気をつけるんだよ」などとうるさくいうのだが。

　外はまだ薄暗かった。おまけに、うっすらと靄がかかっている。いつになく幻想的な風景だった。出歩く者もなく、すべてが静まり返っている。
「この時間って、こんな景色だったんだ……」浩は思いっきり空気を吸い込んだ。冷たくて気持がいい。
　浩はまず、カエデ通りをどんどん歩いて行った。ふだんならクルマの通りも多いこの道も、ほとんど走っていない。
　さらに行くと、こんもりとした森が見えてきた。カエデ通りはここを迂回する形でそれていく。けれど、浩はそのまま森の中へと入った。
　森の中央には見晴らしの塔が立ち、朝日を浴びて銀色に輝いている。

「おや、浩君じゃないかね」背中にかごをしょってクズ拾いをしていた公園番が声をかけた。先祖代々公園番をしている、品のいい優しげな老人だ。
「おはようございます、おじいさん」浩は彼が大好きだった。誰にでも親切で、いつもにこにこしているからだ。
「今朝はまた、ずいぶんと早いじゃないかね」公園番は少し驚いたような顔をする。
「目が覚めちゃって、それっきり眠れなくなったんです。それで、そこいらをぶらっと散歩でもしようかと思って」
「なるほどな、そういうこともあろうて。もっとも、わしなど朝の４時には目が覚めてしまうんじゃが。年寄りは眠りが浅いんじゃよ」
　浩は見晴らしの塔を見上げながら聞いた。
「この塔は、いったいなんのために作られたんですか？」
「さあなあ。わしのご先祖様も知らなんだようだ。なんせ、遙か大昔からあるからのう。夜になっててっぺんが光るところをみると、どうも灯台のような役割を持っているようじゃな。もっとも、どんな仕掛けで光っているのかまではわからんが」

「見晴らしの塔っていうんだから、きっと上に登って町中を見回すためのものじゃないかなあ」
　すると、公園番はやんわりと不定するのだった。
「いやいや、わしは違うと思う。見てごらん、回りを。どこにも入り口などなかろう。まあ、なんにしても不思議な塔じゃな」
　確かに、見晴らしの塔には入り口らしいものは１つもない。まるで、昨日今日造られたかのようにピカピカと銀色の光沢を放ち、傷どころか落書き１つ見当たらなかった。
「本当に不思議な塔だなあ。いつ造られたかもわからないし」浩は改めて、見晴らしの塔をまぶしそうに見上げる。

「これからどこへ行くんじゃね？」と公園番が聞いた。
「思い出の小路を行こうと思ってるんです」
「ふーむ、朝の散歩にはもってこいじゃな。もう、バラは散ってしまったが、晩秋の花が楽しませてくれるじゃろうて」
　公園番と別れ、見晴らしの塔から伸びる、思い出の小径へと進む。
　思い出の小路は、ラブタームーラを突っ切るようにうねうねと続いていた。見晴らしの塔を境に、北側、南側と呼ばれている。浩は北へと向かった。
　道の両端には、ハマギクやノボタンが植えられ、満開の花を咲かせている。
「もう11月なんだよなあ。朝はさすがに、ちょっと肌寒いくらいだ」そう独り言を言いながら、オーバーをギュッと絞った。

　思い出の小路には、あちこちに像が建っている。それぞれにプレートがついていて、作品の題名が書かれていた。
　母が赤ん坊を抱き上げているものには「母性愛」とあり、蛇が木の枝をぐるぐるととぐろを巻きながら登っているものには「医術の心得」と書かれていた。
「これがなんで『医術の心得』なんだろう。おれだったら、『大蛇、木の枝を登る』にするんだけどなあ」
　なんだかよくわからない形のものも多い。人の顔のようなものがいくつも並んでいるもの、複数のブロンズがごちゃごちゃと混ざり捻れたもの、タイトルもそれぞれ「群衆」とか「とある街」などと書かれていた。
「確かに、見た目はへんてこりんだけど、面白い形をしているよな。作った人も、案外、適当だったりしてな」そう言って、心の中でクスクスと笑う。

　さらに行くと、台座さえもない大きなワシのブロンズ像があった。翼を広げ、いまにも空を飛んでいこうとしている。プレートには「サリーナの旅立ち」とあった。
「これだけでかいんだから、きっと子どもくらい、楽にさらっていってしまうだろうな」浩はブロンズの前に立ってつぶやく。
　すると、驚いたことにブロンズが口をきいた。
「いいえ、わたしは子どもをさらったりなんかしませんよ」
　浩はびっくりして、辺りをキョロキョロと見回す。「いま、誰かなんか言った？」
「わたしですよ」ブロンズはそう言うと、広げていた翼を畳んだ。さすがの浩もこれには仰天し、腰を抜かしそうになる。
「だって、君、ただの像じゃないか。しゃべったり動いたりするはずがないよ」
「けれど、現にこうして生きています。わたしだけでなく、ほかにも魂を持ったブロンズがあるんですよ」
　目の前で起こった以上、信じないわけにはいかなかった。そういえば、前に誰かが言っていたっけ。思い出の小路には、夜中に動き出す像があるって。

「でも、もう夜中じゃないよ。まだ薄明るいけど、そろそろ日が出てくる頃だし」
「わたしは好きなときに好きなようにおしゃべりをするし、散歩だってするんです」ブロンズの像は、当たり前のように口をきく。
「散歩って、空を飛ぶってこと？」浩は聞いた。
「もちろん！　ワシにとって、空を飛ぶことこそ生業ですからね」
　少し落ち着いてきた浩は、「君、サリーナって名前なの？」と尋ねる。
「ええ、造られたときにそう名付けられました。初めて自分の意識が生まれたとき、わたしはワシなのになぜここにこうして立っているのだろうと考えました。体はまったく動かないし、声を出すことすらできなかった。でも、ワシである以上、きっと空が飛べるはずです。そう信じて待つうち、だんだん喉の辺りがムズムズしてきて、ついには話すことができるようになったんです。ほら、向かいにネコのブロンズがあるでしょう？　わたしは夢中になって話しかけました。もっとも、相手はただのブロンズだったので、まったく返事はありませんでしたが」

　うんうんとうなずきながら浩は聞いていた。
「それからどうなったの？」
　一呼吸置き、、サリーナは再び話し始める。
「しゃべることができるのなら、動くことだってできるはずでしょう？　ええ、そうすることに決めました。これはちょっとばかり苦労したんです。なんせ、わたしの体は硬い青銅でできているんですからね。そのうち、翼が動かせるようになり、やがて自由に羽ばたくことができるようになった、とこういうわけなのです」
「すごいなあ。いまの君は自由なんだね」浩は感嘆した。
「これから空を飛んでいこうと思うのですが、あなたもご一緒にいかがですか？」
「重くないかい？」心配そうに聞く。
「子ども１人くらい、なんの造作もありません」
　冒険を心から愛する浩は、この機会を逃すべきではないと、すぐさま賛同した。
「うん、ぜひ連れて行って。みんなに自慢してやるんだ」
「じゃあ、背中に乗ってください。」サリーナはそう言うと、台座からトンと降りる。

　ブロンズ製のワシは冷たくて固かった。けれど、乗り心地は悪くない。
「乗ったよ」と浩。
「途中で振り落とされないよう、わたしの首にしっかり捕まっていてくださいね」サリーナは忠告した。
　浩は言われたとおり、サリーナの首元に腕を回して体を固定させる。安全が確認できると、サリーナは翼を大きく広げ、バッサバッサと羽ばたきを始めた。
　次第に体が浮かんできて、見る見る小路が遠くなっていく。
「すごい、すごい！　本当に空を飛んでるぞっ」
　サリーナはまず、北を目指して飛んだ。遠くのほうでキラキラと輝くのは星降り湖に違いなかった。あっという間に眼下になったたかと思うと、湖上をしばらくの間ぐるぐると回る。風のように森を越え、博物館までやって来た。
「あんなに大きな博物館が、まるで積み木のようだ」浩は心の中でそうつぶやく。

　サリーナは街の上も飛んだ。色とりどりの家の屋根が、どこまでもずっと続いている。
「あ、あれはおれのうちだ。美奈子達の家も見える。上から見ると、こんなふうなんだなあ」
　西のほうへ飛んでいくと、前に化石を掘った三つ子山が見えてきた。
「空を飛んでいくと、あんなに遠かった場所も、あっという間だ」冷たい空気を切り裂きながら、サリーナは飛んでいく。
　時折、スズメやカラスに出逢った。そのたびにサリーナは、
「おはよう、スズメさん、カラスさん」と声をかける。彼らのほうでも、さえずりで返事を返してきた。
「一番遠くは、どこまで飛んだことがあるの？」浩が尋ねる。
「そうですねえ、東ラブタームーラまで行ったことがあります。そこはビルが建ち並び、山も森もないところでしたっけ」
「おれ、ラブタームーラからまだ出たことがないんだ。そのうち、電車でもなんでも使って、行ってみたいな」

　20分ばかり飛び回っていただろうか、サリーナが言った。
「そろそろ戻りましょう。わたしが動いていられる時間は30分きっかり。また思い出の小径に戻って、いつものポーズで立っていなくては」
　サリーナは大きく旋回すると、元来た方角へと翼を向ける。
　途中、見晴らしの塔が下の方に見えた。真上から見るなんて、きっと浩が最初に違いない。
　半分だけ顔を出した太陽の光を受けて、銀色に美しく輝いていた。
　サリーナは思い出の小路、子供達が北８番と呼んでいる台座の前に降り立つと、そっと浩を降ろす。
　「サリーナの旅立ち」と書かれた台座に跳び乗り、ゆっくりと翼を広げて以前の姿に戻った。
「この格好が一番落ち着くんです」とサリーナ。
「サリーナ、今日はどうもありがとう。また、一緒に空の旅をしようぜ」
　サリーナからの返事はない。元のブロンズ像に戻っていた。
　もう日が昇っている。散歩も終わりだな、と浩は考えた。
　早くに目が覚めてしまったけれど、、こんな愉快な出来事が待ち受けているなら、たまにはいいな。そう、浩は思った。