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真夜中の小児病棟

 また、暗い時間に目が覚めてしまった。昼間もずっとベッドで横になっているので、眠りが浅い。
 周囲からはすうすうと寝息が聞こえていた。パーティションで仕切られただけのベッドがずらっと並ぶ、ここは病院の大部屋だ。
 わたしは上半身を起こし、ふうっとため息をついた。もう1度眠れるものなら、ぜひともそうしたいところである。昨日も一昨日もそうだったが、いったん目覚めてしまうと、もう朝まで冴えてしまうのだった。暗がりの中、ただ退屈な時ばかりが過ぎていく。
 今は、日中のあの憂うつな診察すら、待ち遠しく感じられた。

 少し離れたベッドで、もぞもぞと衣擦れの音がする。
「むぅにぃ、今晩も起きてるの?」静寂の中、かすれるほどひそめた声だったが、まるで夜明けのラッパほどにも大きく聞こえた。この病室で知り合った、同い年の横山真一だ。胸の病気で、もう半年近く入院しているという。
「起きてるよ」わたしはささやき返した。「ね、いま何時かわかる?」
「うんとね――3時20分」真一は、自分用の小さな目覚ましを持っている。
「あと3時間以上もあるんだ……」聞かなければよかった、とげんなりした。大人ならともかく、小学生にとって、ただじっとしているのは苦痛以外の何ものでもない。

「な、むぅにぃ。君、もう歩ける?」真一がそう聞いてきた。
 先週、学校の帰り、脇見運転の乗用車にはねられ、ここへやって来たのだ。右足のねんざと、全身の打ち身だけで済んだのは、不幸中の幸いと言えた。
 それでも、きっかり3日もの間、体中が痛くてたまらず、起き上がることすらできなかった。
「うん、もう平気。しゃがんだりすると、ひざこぞがまだ痛いけど」
「ならさ、ちょっと病院の中を探検してみない? 面白いぞ」
「えー、見つかったら怒られるんじゃない?」
「もちろん、めちゃくちゃ怒られるだろうね」真一はあっさりと認める。「だから、スリルなんじゃないか。それに、見つからなければ、ぜんぜん問題ないよ」
 真一の言葉を聞いていると、前に図書室で借りて読んだ、挿絵付きの冒険物語が思い出されてきた。読み進むに連れ、あたかも自分が主人公になった気がしてきて、心の底からワクワクとしたものだ。
「行ってみようかな」わたしは答える。

「そうこなくっちゃ」真一はベッドを下りた。
 わたしも、降ろした足でスリッパを探る。触れたリノリウムの床の冷たさに、思わずぞくっとした。
 できるだけペタペタ言わせないよう注意しながら、忍び足で部屋の中をドアに向かって進む。廊下は、節約のためか、1つ飛ばしで蛍光灯が消えていた。
「なんだか、いつもと違って見えるね」わたしは言う。
「消灯時間を過ぎると、いつもこうなんだ」どうやら、真一はたびたびこんなことを繰り返してるらしかった。
「これからどっちへ行く?」わたしは聞く。
「プレイルームをちょっと覗いてこようよ」
「プレイルームって?」
「絵本だとか、おもちゃが置いてある、遊び場だよ」
「へー、面白そう」まずは、そこへ行ってみることにした。
 
 静まり返った廊下を、2人で並んで歩いて行く。途中、個室ばかり並ぶ前を通った。どの部屋の窓も真っ暗だ。
「誰もいないみたいだね」少し、気味が悪かった。
「どこも満室のはずだけどなあ」真一は否定する。「ぼくみたいに長く入院している子どもはともかく、君のように担ぎ込まれてきたんなら、まず個室へ行くんだ、ふつうはね。でも、いきなり大部屋へ来たってことは、みんな塞がってたんだよ」
 そうだったのか。でも、みんなと一緒の部屋でよかった。個室なんかで真夜中に目を醒ましたら、いても立ってもいられないほど恐ろしかったろう。そう思いながら、ちらっとドアに目を向ける。
「あっ……」窓に、黄色く光る一対の目を見た気がした。
「どうしたの?」
 もう1度確かめてみたけれど、何もない。蛍光灯の反射だったのかな。
「ううん、なんでも」

 プレイルームは、そのすぐ先にあった。
「ここだよ」真一はドアの前に立つ。当然、電気は消えていて暗かった。ガラス張りの窓を通して、中の様子がうっすらと見える。
 わたしは窓に顔を寄せて覗き込んだ。昼間、遊んだままの玩具が、散らかったままになっている。
「おもちゃっていっても、小さい子用のばっかだね」わたしはがっかりして言った。
「まあね。託児所みたいなもんだもん。ぼくら大きい子は、昼間なんか来たりしないよ」
「え、じゃあ、なんで――」ガラス窓に映り込んだ自分の顔が、ばかに白いことに気付いた。よく見れば、それはわたしではなかった。
「やあ、みっちゃん」真一がガラス窓に向かって手を振る。
 プレイルームの中から、年長さんくらいの女の子が微笑み返した。髪もほっぺも、ほのかに透けていて、向こう側のおもちゃ棚が見えている。
「お、お化け?!」わたしは驚いて、窓から飛び退いた。

「怖くないって」真一がわたしをなだめる。「いまぐらいの時間になると、どこからかやって来て、プレイルームの中で遊び始めるんだ。不思議な奴らさ」
「やっぱり、幽霊とかなの?」おっかなびっくり、窓を振り返る。いつの間にか、大勢の子供達が集まっていた。薄暗い広場の中で、絵本を開いたり、積み木を並べたり、思い思いに楽しんでいる。
「さあ、どうかな。ぼくも、最初はそりゃあびっくりしたよ。でも、一緒になって遊ぶうち、幽霊だろうがなんだろうが、そんなこと関係なくなっちゃったんだ」
 部屋の中からこちらをうかがっている数人が、こっちへ来て仲間になろうよと誘う。
「ほら、君を呼んでるんだ。中に入って、みんなと遊ぼうよ」真一は、わたしの手を取ると、ドアを開けて中へ連れて行く。
 どの子も体が透けて見えていたが、わたしの中の不安や恐怖が薄らぐにつれ、次第にはっきりとしてきた。何人かと親しくおしゃべりを始める頃には、誰も彼もすっかり実体化し、ふつうの子どもと変わりなく見える。

「部屋の中だって、もう明るいだろ?」
 真一に言われ、いまさらながら気がついた。入ったときはあんなに暗かったのに、まるで昼間のようだ。
「ほんとだ。知らないうちに明るくなってる。でも、こんなに明るくしてたら、看護婦さんとかに見つかっちゃわない?」わたしは心配になった。
「それが平気なんだな。部屋の向こうからだと、こっちは真っ暗なままだし、声も聞こえないらしいんだ。なぜだかわからないけど」
 そこへちょうど、看護師の1人が通りかかる。どこかの個室でナース・コールがかかったらしい。
「見ててごらん」真一はそう言うと、わざわざ窓に顔を押しつけて、大声を上げる。「やーい、やーい、看護婦のおねーさん。ぼくら、こんな時間に出歩いちゃってるよーっ!」

 すぐにでもドアを開け、ものすごい剣幕で踏み込んでくるに違いない、そうわたしは覚悟した。
 けれど、看護師は素通りしていく。わたし達がここにいることなど、まったく気付いていないらしかった。
 ほらね、と向き直る真一。
「いったい、どうなってるんだろう」わたしは驚き、感心するばかり。  
「ねえ、むぅにぃ。君、明日の晩も来るかい?」真一が尋ねた。
「たぶんね。昼寝すると思うから、きっとまた、夜に目が覚めるんじゃないかなぁ」
「もし、まだ眠ってたら、ぼく、起こしてあげようか?」
「うん、そうしてくれる?」わたしは頼む。
「プレイルームのほかにも、もっと愉快な場所を知ってるんだ。そこを案内してあげるよ」
 退屈だった夜が、なんだか楽しみになってきた。

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