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おくのうら道

 防衛省が秘密裏に「水・爆弾」を開発した。炸裂すると、周囲数百キロ四方が湿度100%になってしまうのだ。
 ただでさえ鬱陶しいこの梅雨時に、考えただけでもゾッとする恐ろしい兵器である。
 ところが、こっそり造ったはずのこの爆弾、さっそく盗まれてしまった。
 
 部屋の片隅で、電話が鳴り響く。
「はい、もしもし……」
「ああ、むぅにぃ君かね?」ずいぶんと威張りくさった声だ。
「ええ、そうですけど。どちら様ですか?」
「わし、防衛大臣。で、君に捜査の協力を依頼したいの。ほら、テレビでも話題になってる、例のみ・ず・ば・く・だ・ん」
「はい?」何かの冗談だろうか。
「とにかく、すぐ来てちょ。最寄りのこ・う・ば・んっ」
 それだけ言うと、一方的に切ってしまった。
 わけがわからないまま、わたしは交番へと駆けつける。

「あのう、先ほど防衛大臣から電話をもらった者ですが」わたしが告げると、巡査は恐縮したように奥の部屋へと案内してくれた。
 男がちゃぶ台の前で、あぐらをかいて茶をすすっている。防衛大臣その人らしい。
「来たね、来たね。さっそくだけど、渋谷ハチ公前に行って、松尾芭蕉と合流してくんない?」
「松尾芭蕉って……」わたしは絶句した。
「うん、この件にはね、野牛一族が絡んでいるらしいのよ。ほら、君も知っての通り、人類はサルのほか、ウシからも進化したでしょ」
「初耳です、そんな話」わたしは正直に答えた。
「いや、そうなのよ。ウシから進化したのもいるんだ。ほんとだって」
「わかりました、そういうことにしときますから、先を続けて下さい」

 防衛大臣の話を要約するとこうだ。
 ウシは乳牛、肉牛、そして牛人間の3通りに進化したという。牛人間達は何かにつけ、サルから進化した人類を目の敵にし、事あるごとに嫌がらせを続けてきた。
 そんな連中をギャフンと言わせたのが、かの松尾芭蕉だという。牛の蹄は2本に分かれているので、奇数が数えられない。俳句のリズムは5・7・5だから、句を詠む以前に大敗してしまったのだ。

「それで、芭蕉なんですね」わたしは合点がいった。「まあ、人間は牛肉を食べたりもしますし、恨まれても当然かもしれませんけど」
「ん? 連中、ステーキとか大好きだよ。特に松阪牛の霜降りなぞ、目がないんだぞ」
 なんて節操のない。
「でも、なんでこのわたしが同伴するんでしょうか。何一つ役に立たないと思いますよ」不思議に思って聞いてみた。
「だってだって、ほら。君、小学校の作文で、芭蕉の俳句が大好きだって書いてたじゃないの」
「えっ……」昔の、しかもそんなどうでもいい理由で起用するって、いったいこの人は。

 渋谷駅・ハチ公前で立っていると、ぽんっと肩を叩かれる。振り返ると、180センチは軽く越えている、70ほどの男がニコニコと見下ろしていた。
「待たせましたかな。わしが松尾芭蕉ですじゃ」
 想像していたのとはまるで違う。グレーのスーツをピシッと着こなし、まるで英国紳士のようだ。
「あ、初めまして、芭蕉さん。むぅにぃと申します」わたしはかしこまってあいさつをする。
「わしのことは松っちゃん、とでも呼んでおくれ。そのほうが気が楽でな」
「は、はい……。じゃ、松っちゃん。道中、よろしくお願いします」
「うむ、こちらこそ」
 
 野牛は「おくのほそ道・バイパス」を日光へ向かって進んでいるらしい。
「わしらは、その先手を行かねばなるまい。『おくのうら道』じゃよ」芭蕉、いや松っちゃんは言った。「半日もせんうちに、きゃつめと相まみえることじゃろうて」
 「おくのうら道」は、住宅街の軒と軒の隙間や、時には庭を突っ切っての最短ルートである。おかげで、わたしは何度となくどぶ板を踏み抜き、飼い犬に吠えられた。
 いっぽう、松っちゃんはといえば、その程度のハプニングなど意にも介していない。

 松っちゃんの言葉通り、その日の夜遅く、とあるうら寂しい街道で野牛に追いついた。
「もう、逃げられはせんぞ、野牛め。さ、潔く観念して、『水・爆弾』を渡してもらおうか」池のほとりで、松ちゃんが呼ばわった。
「おのれ、芭蕉。わが一族の恨み、今宵こそ晴らしてくれようぞっ!」野牛は、片方の足で土をかき始めた。マタドールに突進する闘牛のようだ。

 ダッと駆け出したかと思うと、軽々と数メートルを跳ね、強烈な足蹴りを繰り出した。
 松っちゃんは紙一重で身を翻すと、あっという間に背後を取り、野牛の懐から「水・爆弾」を奪い返したうえ、さらに回し蹴りまで見舞う。
「ゲエッ!」野牛は叫び声とともに池に落ち、二度と上がって来なかった。
 
「一句、浮かびましたぞ」スーツのしわをはたきながら、松っちゃんが言う。「古池や かわす跳び蹴り 水の音」

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