カミングアウトできる境界線が移動した話
こんにちは、2019年度のクリスマスの予定は歯医者に行くこと、ムーディです。ドリル音鳴り響くメリークリスマス!
今日で週1note vol.5は最終回げす。
今期は「黒歴史」に焦点を当ててきました。
以下、リンク。
「高校時代にくさいポエムを作っていた話」
「自分だけの主人公を考えていた話」
「自分をモデルにした小説を961ページ書いていた話」
「現実にいない彼女`竜崎`を作り出した話」
などなど。
人から引かれそうな自分の一部や、過去の行動を複数カミングアウトしてきた僕ですが、実はカミングアウトできなかったことも複数ありけり。
まさにカミングアウトできる、できないの境界線があるということですね。
最初、このnoteを書く際にはカミングアウトの境界線がどの辺にあるか、を書くつもりでした。
ただ、この境界線って固定的なものではなく、少しずつ動いてきたものやなぁと思ったり。
そんなカミングアウトの境界線がどのように動いてきたか、自分の境界線の歴史を、うーん語りたい語りたい。
1.「まだ他の人から認識されていない弱さか否か」時代
「まだ他の人から認識されていない弱さか否か」
この境界線は恐らく僕の長い人生を大きく占めてきたんじゃないかなぁ。生まれてから大学4年4月頃まで。
僕は幼少期から「人からよく思われたい」という欲望を持っていました。
そんな僕が高校時代に始めたアメフトでは、頑張った甲斐もあり、高校2年生の12月の時点で立命館大学という数回日本一になっている強豪からスポーツ推薦をもらうことができました。
このどや顔。
当時アメフト部ではない学年の友達や昔からの幼なじみからは
「すごいね!」
とモテはやされまくりで。家族も大喜び。「陽太(本名)を誇りに思う」と言ってくれたりしていた。最高にうれしかった。僕自身はそのモテはやされに快感を覚えます。自分は強い人間なんだ、と勘違いしてしまいます。
大学でもアメフト頑張れそう!と思っていた僕でしたが、さすがは数回日本一になっている大学。関西、関東から各県のエースが集まってきます。
日本代表選手もいたりして。大阪代表程度の私は完璧に埋もれてしまいました。
上の学年には有名な選手が。下の学年からは高校のスター選手が。各県でブイブイ言わせてきたエースをかき集めたそんな部活動。僕はここでは劣等生でした。
部活内でうまくいっていない現実があったのにも関わらず、モテはやされる快感を忘れられず、同じ学年の友達、幼なじみ、応援してくれる家族にはあたかもうまくいっている風に振る舞いました。
結局、私はアメフト部で実力的にも活躍できず、人間関係もこじらせて、大学3年で途中退部を選びます。
それにもかかわらず、僕は「怪我をして辞めたんだ」と周りに嘘をつきはじめます。
「途中で辞めた、という一貫性のない人間だということを露呈することで弱い人間として見られるのではないか」
そう思った僕は必死に嘘をつき続けます。
「アメフト部は実力的にもうまくいかず、人間関係も悪化したので辞めた」
というカミングアウトができなかったんです。
人に自分の認識されていない自分の弱さを見せることができなかったのです。
その弱さを受け入れることができなかったし、自分自身も弱さを受け入れることができなかった。
親には正直に人間関係が原因で辞めたと話しましたが、涙がとまりませんでした。
自分は弱い人間だ。
自分は強い、と思い。自分の強いところ、長所だけを見てきた僕はもろかった。
このとき、僕は「まだ他の人から認識されていない弱さか否か」がカミングアウトできる、できないの境界線になったのです。
2.「評価が下落するか否か」時代へ移行
そんな感じで嘘をついてきた頃。ゼミの先生に「なんか隠していることあるやろ?」と言われました。
そのときには嘘をつき続ける自分が苦しかったのかもしれません。そして、この場なら言えるかもしれない、と僕は感じて自分が嘘をつき続けてきたことを話してしまいます。
自分がアメフト部を辞めた理由をただ話す。それだけのことが自分は相当のエネルギーを有しました。語った後、自分が今まで語ってこなかった弱さが全面的に周知された上に、僕自身も自分の見たくなかった、認めたくなかった弱さを再認識。僕は内省が苦手だったし、嫌いだったんですね。
自分の目の前に仮面をぬぎとり、ひどい顔をしている自分が出現。
めちゃくちゃ辛くなり、人に会いたくなくなり、1週間ほど大学に行かずに家にこもってました。
↑家にこもりながら描いていた自画像。今見るとどこか顔が暗い。
僕はどうなってしまうんだろう。漠然とくる不安に押しつぶされそうになり、誰かに話を聞いてほしくて仕方がなかった。
気づいたら僕は研究室に向かっていて、そこにいたゼミの先輩2人の前で泣きながら話し始めていました。
自分の弱さを意図的にさらけ出す。
慣れていないからとても辛かったが。寄り添って聞いてくれる人、弱い自分でいても自分として認めてくれる人がそばにいた。
「アメフトで活躍するムーディ」ではなく、「ムーディ」を許容する場にいることで、徐々に自分の弱さを語ることができるようになり、弱さを語ることで自分を理解していった。
一部で僕が内省大好きと知られているが、内省が好きになりはじめた時期はこのあたりからだったかもしれない。
自分の弱さがカミングアウトできるようになったことで、「まだ他の人から認識されていない弱さか否か」という境界線から、「評価が下落するか否か」。
これが僕の中のカミングアウトの境界線になりました。
3.「イケていること」を求める世の中
小さい頃からいいところに就職をすることを第一とされ、
いい会社に就職するためにいい大学に、
いい大学に入るためにいい高校に、
いい高校に入るためにいい中学に、
いい中学に入るために、、、、、
と受験戦争が前倒しされまくってきている世の中。
言い換えれば、幼い頃から「いい評価をえること」を第一としてみんなガムシャラにいい評価を得るために勉強の本質と外れたことをし始めたりします。
一夜漬けはいい点数を取れるかもしれませんが、勉強内容はすぐ記憶から抜ける。勉強が日頃の生活に役に立てるためのもの、という本質を考えるなら、如何に一夜漬けは本質からかけ離れたものかは分かることだろう。大学の授業を出ないor寝て過ごし、テストだけいい点をとってどや顔で単位取得している人もこれに当てはまる。
そんな僕も幼稚園生のときに自分の意思とは関係なく塾に通い、節分の豆を箸で掴む練習をしたりして小学校受験に望んだ時期があった。
中学、高校、大学では一夜漬けしまくっていたし、大学の授業も3年間はほぼ行っていなかった。頭の中は如何に単位を取り、有名企業に行くか。そんなことで頭がいっぱいだった。
就職のみならず、イケてる、イケてないの評価軸の中で人の評価を気にする人は多い。
それがもちろん悪いわけではない。
しかし、人の評価を気にして偽りの自分を作りつつ「本当の自分を出したい」という言葉を聞くと、
本当の自分を出す至上主義、所謂本当の自分を出すことがいいとされる社会のなかでまた評価を得ようとしている人も中にはいるんだろうなぁと思ったりもする(少し難解な表現だが)。
数年前に石原さとみの主演ドラマ、「失恋ショコラティエ」が放映されて私が石原さとみに悶絶していた頃、石原さとみ風メイクが流行った。他人の顔に近づけてでも、評価を得たいと思う人は多かったのかもしれない(単純に被石原さとみになりたくてしていた人もいるだろうけど)。
人は良くも悪くも人の評価を気にする。「普通の生き方」というものは存在しないのにありもしない「普通の生き方」にとらわれ、ないものを追い続けて苦しくなる。
そんな社会に育った自分はつい最近までカミングアウトできる境界線は「評価が下落するか否か」ではないかなぁと答えが出ていました。
「過去に彼女がいたことがないって言ったら馬鹿にされるだろうなぁ」
人の評価を気にして付き合ったことがあると最近まで嘘をつき続けていました。
しかし、そんな僕が週1noteでこの黒歴史シリーズを書く中で発見があった。
黒歴史だと思われるもの、つまり他人の評価が下落するであろうものをnoteにいくつかカミングアウトすることによって少し見解が変わってきた。
「あれ?カミングアウトできない内容あるわ。これはnoteに書けない」
何でもカミングアウトできるだろうと高を踏んでいた僕はまだカミングアウトできないものがあり、まだ自分の中で境界線があることに気づく。
4.「人から非難される内容か否か」時代へ
そう、今の私がカミングアウトできる境界線は
「人から非難される内容か否か」である。
「え、『評価が下落するか否か』と変わらなくね?」とつっこむ人もいるかもしれない。確かに似ているが厳密には違う。
「評価が下落するか否か」は「恥」が基準になったが、「人から非難されるか否か」は「罪」ということが基準になる。
頭の中の図式はこんな感じ。
「評価が下落するか否か」の中に「人から非難されるか否か」がある感じである。
・犯罪を犯す
・人を傷つける
・社会のルールを破る
といったもの。僕自身、過去の経験で人を傷つけたことはあったし、社会のルールを破ったりしたこともあった。でもまだこの部分はカミングアウトすることができない。
そして、案外周りの人たちも「人から非難される内容」というのはなかなか語りにくいものなのかもしれない。
「私は過去にいじめられていました」
とカミングアウトする人はよく会う。
けど、
「私は過去に人をいじめていました」
とカミングアウトする人にはまだ会ったことがない。
私は散々いじめられた後に人をいじめた経験がある人を知っている。しかし、その人が語る過去は「いじめられた」という経験だけで、「いじめた」という経験は一切語らない。それほどに「罪」を告白する、言い換えれば「人から非難される内容」をカミングアウトすることは誰でも困難なのだと認識させられる。
今更だが、なんでもかんでもカミングアウトすることがいいことだとも思わない。別にカミングアウト至上主義でもないし、自分の罪を語ることを推奨しているわけでもない。もちろんのこと、罪自体も推奨していない。
しかし、罪をカミングアウトできないがために、孤立し続けてしまい、更生に移れない人たちもいる。
けど、開き直って罪を堂々と語る人もどうかなぁと思ったり。もやもや。
自分の中では罪を語ること、「人から非難される内容」をカミングアウトすることに対しての見解はまだないが、少なくとも僕自身が今カミングアウトできない境界線は「人から非難される内容か否か」である。
5.最後に
今回、黒歴史シリーズで書いてきた週1note。
誰もが自分の弱さを向き合い、等身大の自分が好きになれる社会になるといいね。
では、また次の週1note vol6まで。と言いつつ。
そのとき乗り気じゃなければ書かないかもだけども、気が向いたらまた書きます。
それではグッバイオンザビーチ。
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