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【短編】継げない灯と

最近、また友人が死んだ。と言っても最近段々と珍しい事ではなくなっているのが怖いところだ。人生80年、100年などと言うことも多いが、人間というものは40数年も生きていればコロッと死んでしまう時もある。

私の周りだけでも、事故に巻き込まれたヤツもいれば、病に殺されたようなヤツもいた。それが同僚だったり同級生だったり、幼馴染だったりもした。

そんなヤツらを見ていると、死に兆候がある人間は案外少ないのだとつくづく実感する。『余命を知る方が楽なのか』という議論は意見が別れるところだが、私は出来る限り知っておきたいと思う人間だった。

なにせ我々は急に消えるにしては繋がり過ぎている。
いつだって遺す側はお気楽だ。そして遺された側はいつだって唐突な苦労が待っているのだろう。せめて当人が死ぬ瞬間を分かっていれば、話をしておきたい人がそれなりに居るハズなのだ。遺される苦労を少しでも向こうに持っていければいい。

まず何より、家族と話す時間は欲しい。
自分が居るということは自分を生んだ人間が一組ワンセットで存在する、もしくは存在したということになる。幸運なことに私は前者だ。

そして一人娘が居る私は、既に一組ワンセットの側でもある。
今この瞬間娘がどんなに反抗期でも、死ぬ間際の親の話ならば少しは聞いてもらえるだろう。

それに、人との繋がりは家族だけでは無い。
急に居なくなれば迷惑をかけてしまう職場だって大抵の人間には存在するだろう。せめて引継ぎとお別れの挨拶を一人一人に、というのは望みすぎなのかもしれないが。

仕事と家族だけが生き甲斐のつまらない人間だった私が思いつくのは精々これくらいのものだが、人によってはもっと多岐に渡る繋がりが網のように群がり絡んでいるのだろう。

その点、もしかしたら俺は幸せなのかもしれない。なにせ、これから泣いてくれるだろう人も、泣かせることになるだろう人も全て頭に浮かんでいる。
後悔は整然と、生前に。人生最後の駄洒落も今言い終えた。

長い長いこの走馬灯の間に身をよじる時間が無いのが惜しい限りだ。
自らの消失を知る瞬間になって人は何を継ぐことも出来ない。スローモーションで近付いてくるコンクリートに挟まった砂利までが視界に入る。

高層階からの転落事故という最後は平々凡々な私の人生にしては劇的な終わり方なのではないか。そんな慰めを、いや、逃避を、なんで私が、思考が纏まらない。緩慢な時の流れは、それでも私を離してはくれなかった。

あぁ、また誰かの友人が、同僚が、家族が、死んでいく。

すまない、こr

「ドチャッ」


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