【エッセイ】生活の隣人
生きていると、気軽に命の危機を感じる。
例えばアパートの三階から窓の外を見ながら煙草を吸っている時、例えば包丁でやけに硬いジャガイモを刻む時、風呂に入った足の裏が石鹸の残滓を踏んだ時、何かがどこかに転べば俺は死ぬ事ができると何気なく思う。
誤解のないように言うと、特別に死にたいわけでは全くない。ただ、今は何の過不足もなく動いているこの生命は日常が孕んだ僅かな小石に躓けば簡単に止まる儚いものだと自覚する瞬間が確かにある。
それでも暮らしを止めることは出来ない。暮らしの中の危険を取り除くために努力することもない。聞く音楽がロックからクラシックに変わることも当然ない。
自覚してはすぐに忘れ、また思い出す度に無力感に苛まれるだけの日常を俺は生活と呼んで憚らない。
もう死んだ方がいいと冗談を飛ばすことはあれど、生への諦めも執着もどちらも怠惰に負け続けている。
そんな自分がまだ生きていられるのは運と環境に恵まれているからだろう。不幸だと感じる以上に幸せだと感じることが同数以上に多くあるのは偏に周囲の人間に恵まれているからだ。
自分が今窓から落ちて、包丁に刺されて、風呂で転んで何気ない日常の果てに死んだとしたら、悲しんでくれる人間が人並み程度には居ると自負している。知り合いを悲しませるようなことはなるべくしたくない。
それでも、何故か生に執着は出来ない。執着すればそれの終わりが目に見えてしまうから。直視すれば目が焼け、腹は冷え、足は止まる。そんな恐怖が生活の隣に住んでいることを気付く時間は少ない方がきっと幸せなんだと思う。
隣人は隣人のまま、扉の向こうで共に生きていくことが出来れば、それで。
ガチャ
おや、誰か来たようだ。
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